- 作者: 亀谷敬正
- 出版社/メーカー: 東邦出版
- 発売日: 2007/10
- メディア: 単行本
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なぜこの本が必要だったのか
ふだん古本しか買わない俺なので、一冊三千円級の新刊というと尻込みする。尻込みはするけれど、この本は買うべきだとゴーストがささやく。サンデーサイレンス後の競馬にあって、俺が求めたいと思うのは血統だ。競馬をはじめて間もないころ、「府中のトニービン」というだけで馬券を買った感じ。新聞に印がついていないけれど、「左回りのラグビーボール」で買った感じ。そして、それらが当たった感じ。一頭の血統を突き詰めて分析していったところで、賢兄愚弟の全兄弟で崩れる話。しかし、全体的な傾向ならあるんじゃないのか。格言的なものはあるんじゃないのか。俺は今、それがわからなくなっている。しかしまだ、なんとなく米国系の軽さや、欧州系の重さ、そういった感覚のようなもの、イメージのようなものはある。そこをどうにかしたいという思いがある。そして、今、このときの競馬血統を知るには、今、このときの本でなくてはならない。三年前の古本を買っても追いつけない。だから、今、この本を買う。そして、それが間違いではないと思わせてくれることが本書の中にも記されている。
過去のデータをチェックする場合はなるべく直近の少ないデータで、方向性を読む。(中略)ですから、この本のデータもあえて2年以内のものしか掲載していないわけです。
まさに、しかり。
データは信用できるか
データというのは切り口によってどうにでもなる。膨大なサンプルから、都合のいい解釈さえすれば、まったく逆の答えだって導くことができるだろう。しかし、ある程度の条件下でくり返し行われることから、目に見えてわかりやすい結果を集めていけば、それなりに信用できる、この先に役立ちそうなデータが集まりはしないか。著者はこう書く。着順や人気、走破タイムや上がりの時計など、競馬にはいろいろな数字が存在し、ボクらはそれらをもとにこれから起こる出来事を予測しようとしています。
しかし、歴史は繰り返しますが、反復はしません。全く同じ馬たちが同じ条件でレースを戦うことは2度とありませんから。
ただ、毎週行われている競馬では全く同じ事象は起こらないにしても、似た経過をたどることは数え切れないほどあります。
俺はこれを読んで、最近洗脳されたある本の一節を思い出す。『マネー・ボール』だ。ノンフィクションであるこの本で、作者が題材に対して疑問を投げかけるというスリリングなシーンだ。
こんなふうに数字だけで人間の将来性を予見するやりかたには、どうも違和感を覚える。わたしはそう反論した。選手はみんな違う人間だ。ひとりずつ、無二の例として扱うべきだろう。他と単純比較はできない。
ビリーの返事は明快だった。野球選手はみんな似たような軌跡をたどる。軌跡はデータブックに刻まれている。もちろん、予測のコースから外れる選手もいるけれど、チーム25人全体で平均すれば、はみでた部分は相殺される。
おそらく、亀谷氏のようなスタイルの予想は、野球のセイバーメトリクスと同じだろう。たとえば、ある研究家が投手の能力を測定する数値について仮説を立てる。それは、フェアグラウンドに飛んだ打球がどうなるかは全くの運によるものではないか(=投手の能力とは関係ない)というもの。そして、サクッと出してみた結果に驚く。
「与四球、奪三振、被本塁打だけで球界のトップ5人をきちんと選び出せるとなると、ほかのデータには何の意味があるんだろう?」
話が野球に逸れっぱなしになるが、俺が『マネー・ボール』で一番衝撃を受けたのがここだ。まったく考えもしなかった、というのではない。俺は昔から「会心の当たりに見える鋭く美しい打球が野手の正面をつけばただのアウト、どん詰まりのだっさい当たりも内野と外野の間にうまく落ちればヒット」ということに違和感を抱いているのだ。そして、後者について中継解説者が言う決まり文句、「振り抜いたからあそこに飛んだ」とか「気迫ですよ!」などという言葉に、なんとも白々しさを感じずにはおれないのだ。
しかし、野球はそういうゲームだ。そういうゲームなのだけれど、芯を食ったアウトと、打ち損じのセーフ、その境界、アンビバレンツ。俺にこの疑問を抱かせる原因は「人生最高の当たりがファウル」、「内野安打を打ったら死にたくなる」と言ったという前田智徳の存在に他ならないのだけれど、そのもやもやを、上のデータがある意味吹き飛ばしてくれる。少なくとも、投手の優劣については、この三項目でほぼ正確なものが出るというのだ(もちろんこの仮説は多くの野球マニア、データマニアによって批判され、検証された。が、結局論破されなかったという)。
この場合で言う「与四球、奪三振、被本塁打」というデータ。また、『マネー・ボール』が紹介するところによるチーム力についてのデータ。
20世紀のさまざまなデータを数式にあてはめて、勝率と関係が深いデータはどれなのかさぐった。重要なデータは2つしかないことが判明した。どちらも攻撃面のデータ。出塁率と長打率だ。ほかの数値はすべて、きわめて重要性が薄い。
この場合の「出塁率」と「長打率」という尺度。これが、亀谷氏の馬券理論では「血統とコース」、「血統と前走着順」、「距離と前走着順」などといったものに当たると思う。野球のセイバーメトリクスでは、それら重要なデータ、他者からはあまり重要視されないデータを駆使して、他の数値の低さやマイナス点から安く手に入る選手を集める。これは、他の要素によるマイナス点を軽視し、主に血統というデータを重視して穴馬券を狙う考え方に似ているといっていいだろう。
俺は数学がからっきし駄目な人間だし、統計やデータ処理などということもさっぱりわからない。しかし、これは信用に足るものではないかと思う。現にアスレチックスは低年俸軍団ながら、長期戦のシーズンにおいては好結果を残している。また、亀谷氏が本書で検証している年間機械的購入による回収率、それは信用に値するように思える。しかし何より、俺自身については、俺がヒットに抱いていた直観的な疑問、そして血統について降って湧いたように起こるイメージ、それとの符合の方が大きい。
この出目表、どう活かすか
問題は、この本をどう活かすかだ。この本は二冊構成になっていて、付録的なminibookが狙撃術的にはむしろ肝。そこに、コースと距離ごとの狙い馬、種牡馬別近二走データなどが記されている。そこから、専用のチェックシート(馬名を18頭分書くのは案外疲れる)を用いるなり、競馬新聞に書き込むなりして、狙いの馬を自動的に選ぶ。これっていわば、出目表に近い。出目表が過去の出目だけを解析(実際にしているのかどうか知らないが)したものとすれば、こちらは血統を解析した出目表といったところ。実は自分、ちょっと出目表に興味がある。もちろん、それで「万馬券連続的中!」などという夢が叶うとは思わない。ただ、自分の少ない知識では選びえない人気薄の馬を偶然拾える手段に、つまりはヒモに機械的に一頭選ぶ手段として、そういうランダムピック的要素が欲しいということだ。そして、こちらの出目表は、出目の積み重ねよりずっと面白みのあるデータに裏打ちされているというわけだ。では、それを機械的に買い続ければプラスを計上するのか。検証的には100%を超える回収もあり得そうだ。しかし、それは未来もそうかわからない。おそらく著者の勧めるところでもない。著者は何度もデータは将来に向かった流れを読むためのもの、と記す。そして「究極的には型を持たない技」を求めているという。そのために、徹底的に型を極める必要があるという。
良質なカンは日々の単調な訓練によって生み出せる。
これはまさに禅と剣の精神にも通じるものではないだろうか。著者はブルース・リーのカンフーを引き合いに出しているが、俺が思い出すのは鈴木大拙の本で知った沢庵和尚の教えだ。ひょっとしたら同じところから来ている、東洋の思想かもしれない。「何もしらず習はぬ時の、心の様になる」、すなわち馬柱を見ただけでピンとくる、そんな感覚ではないか。
……さて初心の地より修行して不動智の位に至れば、立帰て、往地の初心の位へ落つべき仔細御入り候。貴殿の兵法にて可申候。初心は身に持つ太刀の構へも知らぬものなれば、身に心の止る事もなし。人が打ち候へば、つひ取合うばかりにて、何の心もなし。然る処にさまざまの事を習ひ、身に持つ太刀の取様、心の置所、いろいろの事を教へぬれば、色々の処に心が止り、人を打たんとすれば、兔や角して、殊の外不自由なる事、日を重ね年月をかさね、稽古をするに従ひ、後は身の構へも太刀の取様も、みな心のなくなりて、唯最初の、何もしらず習はぬ時の、心の様になる也。是れ初と終と同じやうになる心持にて、一から十までかぞへまはせば、一と十と隣になり申し候。……
とはいえ、俺にその真似はできない。ただ、馬券の面白いところは、素人にも達人のようなひらめきが降ることごくごくたまにあるということだ。「大井の千四だから目ぇつぶって内枠の人気薄逃げ馬から総流し」などといういい加減な買い方で馬単8万円ゲット、などという大当たり。まぐれ当たり、ただの勘、には違いない。同条件を同じように買い続けた結果ではない。ただ、こんな衝突事故も、結果が原因を正当化するには足る。世界を会得したような快感、全能感。そのためには、より多くの「大井の千四だから内枠の逃げ馬」が必要なのだ。
そして、その武器と、他の条件、天地人(無理矢理当てはめるなら、天候・枠順・鞍上あたりだろうか)その他いろいろが合致したときに、乾坤一擲の馬券が炸裂するかもしれない。これが馬券の良さだ。セイバーメトリクスの実践者は短期決戦にその理論が通用しないと認めている。しかし、馬券はいつがプレイオフか、ワールドシリーズか、自分で決めることができるのだ。おまけに、オッズというてこもあって、一気に十勝も二十勝もできてしまう。もちろん、大勝負ではないにせよ、より多くの血統のイメージを持つことは、日々のレースに活かされるだろう。未知の種牡馬が出てきても、類推によって新たなイメージを持つことができるだろう。
と、ときどきの使用でいいのかどうかはわからない。「この試合はセイバーメトリクスでいこう」と、一試合だけ出塁率の高さと三振率の低さで打順を組んだところで、それはセイバーメトリクスと言えるのかどうか……。だいたい俺は、勝負弱いというか、勝負の舞台に乗る度胸のない男なのだ。
清水が似たようなこと言ってたな
しかしまあ、天地人だの乾坤一擲だの出てしまうのは、何となく清水成駿っぽい。俺は清水成駿信者だから仕方ない。しかし、不思議なことにこの本には、あの“孤高の◎”の清水、“使う側の論理”の清水、“男の一本勝負”の清水と、同じようなことを述べていると感じる部分がいくつかあるのだ。清水の最新の著作にこうある。血統は、こういった大雑把な認識でいい。すぐには役に立たないかもしれないが、積み重ねた認識は自分の血となり肉となる。インスピレーションは、何もないところからは浮かばない。浮かんでくるのは、こういった積み重ねがあるからなのだ。
このあたりとか、なんとなく同じようなこと言ってるような気がするのだ。だいたい清水の孤高の◎にしたって、ある着眼点における有利さを重視し、他の予想家が無印にする理由であるマイナスを無視するところにある。むしろ、調教師だってマイナスがわかっているのに、それでもあえて出してくるところの意図を、有利さの補強にしてしまうところが大胆不敵。ただ、その「ある着眼点」に、パソコンによる膨大なデータ解析の結果を用いているわけではないというだけだ。しかし、もちろんデータ無しに競馬はできない。G1級昇格11年目を迎えたフェブラリーステークスについて。
これで過去10年のデータが完全に揃ったのだが、だからといってこれを10年のスパンで見ると、本来、見えるものが見えなくなる。視点がボケるのだ。焦点を絞るには3年で十分。
これ、東スポの馬単三國志でもよく見かけるフレーズだけれども、亀谷氏も似たようなスパンで見ている。古いデータを積み重ねすぎると、かえって使えなくなる、と。また、今年のスプリンターズステークスへの過程についての解釈も、軌を一にするところがある。
よくわからないが、自分が興味を持つ、あまり似ていないようなタイプの予想家が、ある部分で同じ事を言う。この俺の中での繋がりというのはなんとなく悪い気はしないものだし、いっちょ信じてみるか、と思うに足る材料になる。いや、俺はふだんまったく予想系競馬雑誌など読まないので、このあたりはみんな同じ事を言ってる可能性だってあるのだが。
しかし、効果は未知数
長々と書いてしまったが、正直なところこの本が届いたのは今週の半ば。すなわち、まだ実戦投入していない。まったく使っていない。東京ダイナマイトのウォーキングマシン気分で言おう「効果は未知数!」と。むろん、先週の馬柱に当てはめて検証すればいいのだが、運悪くもう捨ててしまっている。なので、阪神カップの想定表からちょっとこの本による上位馬、すなわち「爆血馬」を導き出してみて、「ほほう、この馬が」と唸ったりしているくらい。でも、俺は自分に武器が欲しいと思っていたし、型が欲しいとも思っていた。だから、この本を買ったことを後悔するつもりはないし、netkeibaの連載からも、著者の言い分には毎週説得力を感じている。ペールギュントの高松宮記念も目の当たりにしているし、しばらく影響を受けているし。すなわち、俺が何を言いたいかといえば、貧乏人にとって、世間樣にとってたかだか三千円の本を買うことについて、これだけの言葉を費やさなければ自分に言い訳できないというなんともしょうもない話なのである。乞う、皆さま、これを諒とせられよ。rakuten:book:12464778