中田翔の起承転結

「完全にやばいっすよ。今のうちにプロの厳しさを知っておけってことですかね、神様が。ふざけるなよ、神様!」

http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20080313-334792.html

 「完全にやばいっすよ」「起」である。現在自分が置かれた状況を客観視し、それを感情的に言い表して聞き手の興味を引く。
 続いて「今のうちにプロの厳しさを知っておけってことですかね」「承」。最初に述べられた現状を引き継ぎ、それを分析しているのである。聞き手も「ふむふむ」と頷くところである。
 そして、倒置法によって配置された「神様が」。これが劇的な効果を生み出している。まさに「転」である。バッティング・フォームやプロに必要な体力などが問題なのではない、突如、神が降臨するのである。中田の受難、忍苦、それを世界の背後で糸を引いて演出していたのは「神様」であった。一人のプロ野球ルーキー中田翔の悩みは、ここに来て突如全世界的な意味、人類普遍的な意義を帯びてくるのだ。果たしてこの課題はどういう形で幕が降りるのか、目が離せない。そして……。
 「ふざけるなよ、神様!」。これが答えである。見事な「結」と言わざるを得ない。全智全能の神の前では、一人の人間など虫けら同然の無力な存在。しかし、その神なるものに対して、「ふざけるなよ!」と対抗心を露わにする若者。それは同時に、自らを奮いたたせる言霊でもある。これにより中田は、神殺しに挑む神話的英雄像と合致するのである。しかも、「神」に敬称たる「様」を付け続けるところに、単なる悪魔的な呪詛、罵りから免れているところに留意されたい。
 かように見事な野球選手を獲得した北海道日本ハムファイターズは、実に幸運だったと言えるだろう。これがスポーツ紙の一面にならないはずがないのである。なに、野球の実力? そんなものは神ならぬ‘神童’中西太の指導でも受けておけば、‘神の子’マー君くらいはいかようにでもなるものである。それが神話の流れというものなのである。
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