『星を継ぐもの』ジェイムス・P・ホーガン/訳:池央耿

星を継ぐもの (創元SF文庫)
 あたし、ちょっと不思議っ子系の女子高生。ある日、本屋さんでこんな紹介されてる本、見つけちゃったんです。

月面調査員が真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。綿密な調査の結果、この死体は何と死後五万年を経過していることがわかった。果たして現生人類とのつながりはいかなるものなのか。

 あたし、アソコがじゅん、ってなっちゃった。五万年なんて、信じられないと思う。けど、きっとすごいんだろうって、思ったんです。それで、ホーガン先生ったら、あたしのじゅんってなった、アソコばっかり責めてくるの。「異星文明に対する、社会意識の変化も触って」とか、「科学者の内面や人間関係の葛藤についても、いじってほしい」って言っても、「それよりサイエンス・フィクションの話しようぜ」って、アソコばっかり、あの手この手で責めてくる。すごいハードで、あたし、何度もイっちゃったんです。
 ……って、何が悲しくて宇能鴻一郎風にしたのかわからないけれど、完全にハードSF。これぞハードSF。「月面で見つかった五万年前の死体」にゾクゾクした人の、そのゾクゾクに向かってのみ、ひたすら突き進む。その点において、たとえば昨日亡くなったクラーク卿の方が、科学その他に対する今日的意識を先取りしていたところがあるかもしれない。でも、だからなんだってんだ、気持ちいいとこ責めてくれたらそれでいいじゃない。ブレンデッド・ウィスキーにはその良さがあるだろうが、またシングルモルトの純粋で強烈な味もあるだろう。これは後者だ。そして俺は、科学も数学もとんと疎いくせに、このハードさにしびれてしまう。フィリップ・K・ディックカート・ヴォネガットを深く愛するけれど、これはハードSFにしかありえないぜって、センス・オブ・ワンダー? そんなものにやられてしまう。鏡明という人の解説文にだって書いてあった。

 小説として、SFとして、おそらくは数多くの欠点を持っているこの作品は、そのすべてを帳消しにする魅力がある。読んでいる内に、胸がワクワクしてくるのだ。サイエンス・フィクションなのだ、これは。

 そして、ラリイ・ニーヴンについてこう書かれている。

ニーヴンは、結局は、小説を書くのかもしれない。当初のアイディアや科学や技術の存在が、ストーリー展開の中で、急速に輝きを失っていくのを、ニーヴンの長編では、しばしば経験する。ストーリーが、ついに全体を支配していくわけだ。

 ニーヴンといえば『リングワールド』しか読んでいないけれど、ニーヴンに限った話でなく、この失われる輝きについては何か思い当たるところがある。たとえば、『宇宙のランデヴー』の続編とか、その他いろいろ(忘れやすいのです。たとえば『宇宙消失』がどうだったとか、もうきれいさっぱり)。それで、もちろん主人公のトラウマとか、色恋沙汰とか、社会情勢とか、組織論とか、そういったものを盛り込んだSFがつまらないということは決してないけど、SFの持つある特性の一番濃いところは、ハードなところにこそある。無邪気なほどの科学信奉、人間信奉、無批判な発展への希望、なんでもこい、それでかまわん。俺はそれが読みたいし、それを読みたいという人がいっぱいいて、そしてその先人たちがオールタイムベストとして挙げるようなものに外れはない。SF、SF、SFっていいなって思うんです。
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