『バベル』/監督:アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ

バベル スタンダードエディション [DVD]
 映画『ロスト・イン・トランスレーション』の感想で書いたと思うけれども、俺は人間同士のロスト・イン・トランスレーション的なことがらに関心がある。たとえば、単なる「ウコンマーンアホ」という苗字も、言葉の変わる場所では「単なる」で済まなくなるという、そいういうことが面白いのだ。いや、ちょっとその例はその例すぎる(サオーチン、オケケほかの例)けれども、おそらくそれも根っこは一緒だ。そんなところからはじまったとして、やっぱり人間のコミュニケーションはどこか悲しいし、おかしいのだ。たぶん。
 で、おそらくこの『バベル』もそのような類の作品ではないかと思った。まさにバベル、言葉がバラバラになってしまった、そんな話だ。そういえば、つい最近、こんな言葉を知った。wikipedia:曽我量深で見つけた法語だ。

浄土は言葉の要らぬ世界である
人間の世界は言葉の必要な世界である
地獄は言葉の通じない世界である

 これは浄土真宗系の言葉であって、浄土や人間の世界、地獄をどう捉えるかどうかはわからんが、禅の本や白隠が武士をdisってブチキレさせた例からいえば、この刹那、刹那のわれわれのありようこそが天国であり、地獄。となれば、人間には言葉など必要ない瞬間もあれば、言葉を尽くさねば、コミュニケーションを尽くさねばならん瞬間もあり、言葉の通じぬ地獄も現れる、そう理解してもいいのではないか。
 となれば、この『バベル』において描かれるのも地獄ばかりではない。地獄多めかもしれないが、言葉の要らぬ浄土も描かれているはずだ(はず、なのか?)。そう思って見返せば、たとえば、菊地凛子と刑事役の人(この人、いい役者だよね?)のふれあいであるとか、ブラピに金の受け取りを拒否するあれだとか、あるいはベビーシッターの叫びなんかもそうかもしれない。ハッシシ(かな?)をそっと差し出す老婆なんかもそうだろうし。
 と、まあ、映画の感想なんてどう書いていいかわからんが、骨のある映画だったわな、と。あと、公式サイトでもDVDでも、最初に危険な映像効果ってあるから、ひょっとしたら菊地凛子のヘアがビカビカ光るのかとか思ってたら、そうではなかったのだけれども、なかなかあの裸体の生身度というか、それについても唸るようなところがあったりしたのであった。えーとあと、ウィキペディアによると菊地凛子の聾者演技について聾者団体から抗議があったようだとか、わざわざバレーボール指導がヨーコ・ゼッターランドだったとか、音楽がよかったな、とかいろいろあったけれども、ちょっとこのあたりで失礼します。