おはようございます
http://www.asahi.com/culture/update/0308/TKY200903080140.html
この文藝春秋、これを今朝買つた。どこかコンビニで買へるだらうと思つてゐたら、アパートから一番近い山崎パンショップの店頭に一冊在る。つねづね、「ここで漫画や雑誌を買ふ人はゐるのかしらん?」と思つてゐたのだが、私がその人になつたといふことだ。七百五十円。私は雑誌類を買ふ習慣を、貧乏のために失つてひさしく、「結構高いな」と思つたのが、正直なところである。
さて、インタビュー記事、「僕はなぜエルサレムに行ったのか」だ。冒頭の方から一部引用させて頂く。
ただ僕なりに考え、腹を決めて行動しているわけです。長いつきあいの人にもそういう部分を察してもらえないというのは、やはりきつかったですね。だから出かけるときには孤立無援という感じでした。『真昼の決闘』のゲーリー・クーパーになったような気分だった。まああんなにかっこよくはないけど、気分的に。
孤立無援といふのが、彼の心情だつたようだ。でもね、てまへ味噌ですがね、私は、私は応援してゐたんであります。ただ、ゲーリー・クーパーではなく、キルゴア・トラウトのやうに行け、バットを振り回せ、失敗したつていいんだぜ、むしろ、失敗する位がいいんだぜといふ、ろくでもない応援ではあつたわけであります。
まあそれはともかく、受賞の打診、大規模侵攻、賞のゆくえ、スピーチの原稿に検閲は入るのか入らないのか……、そして、イスラエルで春樹が見たもの、接した人々とは……? それは、文藝春秋を買つたりして読むべきである。私が云ふのも何だが、今時の出版業界は、卵のやうにか弱い。お金のある方は、その側に立つてくれないだらうか。ま、ともかく、読んでみて下さい。ただ、そこにあるのは、何か途方もない背景や、知られざるストーリー、意表を突く発想、そんなものではありませぬ。このたび村上春樹が為したであらうことそのままに、実に実直な、誠に誠実な物語りがあるばかりだ。私はさう感じたのであります。
ところで、どこで読んだのか失念したが、村上春樹は、「作家が最後に語るのは、自らの作品についてのことだ」とか何とか書いてゐたと思ふ。すなわち、自作について解説したりはしませんよ、といふことである。それがいつ書かれたもので、その後、村上春樹がその方針をどうしたのかは知らない。ただ、もしもそのスタンスが生きてゐるとすれば、このたびのイスラエル・スピーチは、あくまで作家としての政治に対する政治の物云ひであつて、そこは「嘘をつかない日」の彼であると、私は判断する。
いきなり小林秀雄の話をします
きのふお話した、「政治と文学」から少し長い引用をする。ジイドの「ソヴェト旅行記」を採り上げたくだりであります。ジイドは冒頭で「これは全く個人的感想であり、自分の観察は心理的角度からでない」と記したといふ。ジイドが、自分の見方がたとえ社会問題に触れるとしても心理的な角度を出ないという時、それは恐らく自分の立っている立場を説明し、主張しようとしているのではない。寧ろ、どんな立場に立つ事もはっきり拒絶しているのだ。作家としての無私な態度の率直な表明なのである。彼はただこの無私を賭けているのです。無私は一方の極限では無に帰するでしょうが、一方の極限では非常に大きな理想に触れている、だからジイドは言うのです、「自尊心などはまるで問題ではない、自分はそういう感情をもっていない、私には私自身より、ソヴェトより重大なものがある、ユマニテである」
ところで、もしジイドが、この人類的立場なるものを表向きに掲げたらどうなるか。曖昧な目出度い立場だと笑われるだろう。ジイドは、よく承知していたから、これは個人的感想に過ぎないと書いた。そうしたらやっぱり失敗した。これは厄介な問題ではないですか。
村上春樹はスピーチで次のように述べた。
ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッセージです。
また、「政治と文学」から引用する。
ある外国の雑誌にこんな漫画が出ていた。酒場で二人の紳士が殴り合って、二人とも延びている、介抱しているボーイさんが、こんなことを言っている、「だからあれ程申し上げたではありませんか、うちでは平和論だけはお断りしています」と。誰だって笑うのです。但し、二人の紳士の喧嘩ならば。しかし、漫画から、政治的党派への道は、ただの一歩だ。頭数によって保証される政治イデオロギイという制服をつけた集団の対立へ進むのに、何一つ面倒なことはない。そうなるともう笑いごとではない。平和か、然らずんば死か、そういう事になります。
ところで、笑いは何処に行って了うのか。何処にも行きはしない。私達の健全な判断とともに私達の心の中に止まって、才能ある漫画家の作に出会えば、何時でも笑い出す用意はしているのである。この笑いは、イデオロギイの配分を受けて集団化しようなどとは決してしないものです。私は自分でおかしいと判断し、一人で笑えば、それで充分だからだ。さよう、確かに充分なのである、何故かというと、私は一人で笑いながら心の底では誰もが笑う筈だと信じているからです。いや、一人で笑っているというその事が、そのまま皆と一緒に笑っているという自信の表明だからであります。笑いでもいい、涙でもいいが、要するにかくの如きものから、文学者はその思想を育てていくのである。
その点、文学者のやり方は、全く子供らしく素朴なものなのであります。自己を表現するのに、自己の体験を離れることが出来ない。どうしたらそんな狭い道から、広い道に出られるか、その明かな方法は誰にも、当人にもわからない。判然と解らないが、ただ力を尽くしてやってみるという事が、即ち思想を創り出す道だと信じているだけだ。そして、そういう信念を自ら人に抱かせる様な模範的作品が、或はそういう作品に動かされるという一つの体験が実在するだけだ。一向とりとめのない曖昧な言い方をする様ですが、文学概論などを信用しまいとすれば、それも止むを得ない。そういう次第で、これは政治的思想とは、まるで似たところがない。
村上春樹はスピーチで次のように述べた。
生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。
俺には(時間がないので、急に口調が変わる。ブログとはそういうものだ)、ここんところが、同じことを指ししめしているんじゃねえかと、そう思えてならない。村上春樹とイスラエルは、まさに文学と政治だった、卵と壁だった。文学といっても、いわゆる文学論的文学や本棚的文学ではなく、まさに俺たちが、ここでこうしているこの俺たちが文学だ。俺たちは文学であって、集団化されざる笑いの、涙の主体であって、かけがえのない魂である。臨済だってこう言っている。
このごろの修行者たちが仏法を会得できない病因がどこにあるかといえば、信じ切れないところにある。お前たちは信じ切れないから、あたふたとうろたえいろいろな外境についてまわり、万境のために自己を見失って自由になれない。お前たちがもし外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師であり仏である。お前たち、祖師や仏を知りたいと思うか。お前たちがそこでこの説法を聞いているそいつがそうだ。
『臨済録』朝比奈宗源訳注 - 関内関外日記(跡地)
と、ここまで来ると、俺の患う突発性仏教地獄に陥るので、ここらあたりでさようなら。ただ、これからもこの話題について触れると思うし、あるいは触れつづけていると、そういうつもりでいることを、表明しておきたい。
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