感傷と追憶の腰越・津・西鎌倉紀行〜その1〜

はじめに

 ここに記される記録は2009年7月26日、私が私の育った界隈を、ただ追憶の赴くままに徘徊した記録である。移動には自転車を用いた。昨日記したモノレール紀行片瀬山駅付近から始まる。私は、失われた私の実家があった土地の前を通り、二十年前の私の通学路を走った。
 私は、私の過去の記憶が、じっさいにそうであったかどうかということに責任は持てない。また、私がこの日見た現状について、その認識がその内情に合致しているかもしらない。ただ、私は私の追憶と感傷に対して、できるだけ正直であろうとしている。また、この日の私に対して、今日の私も、また正直であろうとしていると、それではここに言明しておきたい。
 なお、断っておくが、今回はモノレールのような、目をひく存在は出てこない。ただ、私の記憶の中の大きさが左右するばかりであって、かなり限定的な界隈の記憶のない人には、なんら楽しめるものではない。しかし、その割に長いのだ。長すぎて、今回一回では書ききれなかったくらいだ。

失われた実家を求めて


 片瀬山駅から海の方にまっすぐ進む道がある。足もとの白い舗装がおしゃれだ。そして、対面に見える家も変わらない、その向こうの遠景も一緒だ。ここは、なかなかの風景だと思う。Wikipedia「湘南モノレール江の島線/湘南モノレールが登場するメディア作品」に挙げられている、「学校IV(松竹大船撮影所撮影の最終作品、ラストシーンに登場する)」のロケが行われたのは、まさにこの場所である。私は、おおよそこの道を通って片瀬山駅から家に帰った。また、行くときも同様である。ただ、今も変わらぬくせで、あと二通りほどパターンがあった。所要時間は、走って三分、といったところだ。


 この石には見覚えがある。思い出がある。


 この壁には見覚えがある。思い出がある。ゴムボールや、サッカーボールの的にした。この屋敷には、江ノ電の社長だか会長だかがお住まいだった。雪が降ると、朝早くから社員の方が雪かきに来られるので、こちら側を通れば、メーンストリートまで問題なく出られるのであった。


 お前は変わらないなぁ。


 さて、私の家のあった場所。今どきまとめては売れないから、二つに分けて売りましょうとなった、その後……なのだが、今や縁とゆかりはあるかもしれないが、なんの権利もない私が、勝手に人の家を撮って、アップしてどうこう言うことができようか。いや、それはできまい。だから、なんとなく、この路地を残すにとどめよう。
 家、二件になった家。もう新築というわけではないが、立派な家だった。大きな家だった。私の住んでいた家は、面積はあったかもしれないが、作りが無駄で、古く、あれはもう、すべての意味で解体されるべきだったのだ。まったく、俺はそう思った。そして、今やこのように、この土地にふさわしい人間がここに住み、やがて去るかもしれないし、末永く住むかもしれないし、まったくあらゆる家はそのようなのだ。きっと。

津西〜腰越


 この下り坂にも思い出はある。左手の崖は、「崖」と呼んでいた。いつだったか崖崩れして、それ以来、金網の防護ネットが貼られるようになった。小学生にとって金網ネットは登る対象であり、公園や空き地、学校でみな登ったものだった。だが、この金網ネットは恐ろしい。ビル何階分かの高さはある。お調子者が登りだしたところで、すぐにその高さに恐怖を感じてあきらめる。私は小さなころから高所恐怖症だったが、不思議なことに、この崖を頂点まで登り切るという妄想を常に抱えていた。


 この急坂にも思い出がある。「急坂」と呼んでいた。傾斜計など持っていないのでわからないが、かなり酷な坂だ。この坂を、小さな身体に大きなランドセルを背負って、毎日登っていた。小学校の修学旅行で日光に行き、徳川家康グッズの中に「人生は重き荷を背負い遠き道を行くがごとし」といった文言を見たとき、まず思い浮かんだのがこの坂であった。
 今はご覧のような舗装である。だが、私の記憶では、この真ん中に排水路のようなくぼみがあった。私はよく、そのくぼみをレールの溝かなにかに見立てて、狭い路地を走る小さな小さな路面電車のような、そんなものを想像していた。




 坂の頂点から、同じだけの坂を下ると小学校がある。ここの景色というのはちょっとしたものだった。両脇に見える松の木の間から、海が見えてくる、江の島が見える。いや、今だってなかなかのものだろう。ただ、こんな風にトロピカルではなかったし、私の記憶には記憶なりの美化というバイアスがあるのだ。ただ、昔はこの両脇、古い邸宅ばかりで、新しい住宅はなかった。
 ちなみに、急坂の頂点は十字路になっている。まっすぐ進めば学校、右に曲がれば目白山下駅、そして、左にも路地があり、下りの階段があった。小学何年生のころだろう。その階段の道で、不良女子中学生が、男子小学生を取り囲み、「おちんちんを見せろ」と強要するという事件が何度かあった。その旨、担任教師から「帰りの会」で注意があった。あの道は暗くて細く、通学路でもないので、通らないように。
 私は、それから、ひとり(……津西方向に帰る子は少なかった)どきどきしながら、何度もその道を通った。女子中学生のお姉さんに、取り囲まれたかった。男の子ならみんなそうするだろう……とは言わない。ただ、私はそういう子供だったし、未だにそういう子供かもしれない、それだけのことだ。そして、当然ながらというべきか、じっさいに女子中学生に取り囲まれることはなかった。その機会は訪れなかった。
 ただ、寺山修司ではないが、じっさいに起こらなかったことも歴史の内である、とでもいうべきか、何度も、何度もその遭遇を妄想しながら通ったあの細い路地、古い階段、強固な私の性的な記憶。その反復は、甘美ですらある。むろん、本当に遭遇してみれば、それは単なる暴力の被害であったかもしれないし、甘美からほど遠いものかもしれない。しかしそれは、起こらなかった起こらなかった歴史である。追憶と感傷の世界では、そこに断絶がある。客観的な可能性なんてものは、放っておけばよろしい。

鎌倉市立腰越小学校


 私の母校、私が愛着を持たぬ母校。校舍を目の前にしてみても、何ら感慨が起こらない。ここまでの行程で感じたトポフィリアの放電が、いきなり収まったような、そんな気になった。
 これは……今はどうだかわからないが、理科実験室や、図書室、そして、雪花と呼ばれる特別学級があった校舍だったろうか。陽当たりが悪く、暗い印象があった。たしか、普通の教室はなかったような気がする。そして、この暗い合間は、私の属していたグループの遊び場所でもあった。たまり、とでもいうべきか。しかし、考えてみると、一年から六年までたくさんの生徒がいるのに、なぜこのあたりを占有できたのかよくわからない。ただ、ここからさらにくの字に曲がった校舍裏まで、よくたまっていたのだ。ちなみに、小学校を卒業するとき、私に友だちは一人もいなかった。かっこいいようなこともいえるし、泣き言もいえる。

 このステンドグラスらしきものは、私の世代の卒業制作だったのではないか? しかし、見覚えがあるということは、あるいは前の世代? まったく記憶は混濁している。

 なんの変哲もなく、代わり映えもしない校舍。この日はサッカーか何かの試合が行われていた。校門は固く閉ざされていた。父母か関係者かなにかわからない大人も数人、門の外から眺めていた。昔は、開けっぴろげだった。このあたりは、今風なのだろう。
 さて、私がこの学校をあまり好まなかった理由は以下を参照されたい。

失われた信州屋を求めて


 この郵便ポスト、広い側溝の蓋には見覚えがある。私が、遠回りして下校したときの道。帰り道は、友だちといっしょに帰ることが多く、坂を登る最短ルートは少なかった。ときどき、一人になると、暗い路地、階段を登った。


 「ヤマザキ」と呼ばれていた「ヤマザキ」。ここは、週刊少年ジャンプを買う場所でもあった。本来禁止されている、登下校時の買い物。ああ、しかし、少年ジャンプは圧倒的だった。どのくらい圧倒的かといえば、だいたいナメック星のあたりだといえばいいか?


 「たじみや」健在。私の記憶からは完全に抜け落ちていた。そして、私がさらに驚愕したのは、匂いだ。なに、「たじみや」が特別な匂いを発しているわけではない。ただ、どこかから線香の煙のにおいがして、そして、ともかく、この界隈の「匂い」だ。記憶と匂いというと、何かあるらしいが、記憶から抜け落ちていた「たじみや」あたりの匂いというのは、驚愕そのものといっていい。


 私がマルフク主義者であることを、あらためてここで宣言しよう。ちなみに、右の浅尾慶一郎のポスターは、民主党所属時の……つまりはついこの間までのものである。今は、青字に白い字で「日本に/あさを」とだけ書かれたポスターが、あちらこちらに貼られていた。そんなポスターでも、浅尾の名は知れ渡っている。私も、浅尾を民主党らしい民主党議員というか、地元に貼られたポスターの量から、なにか民主党の象徴のようにすら思っていた。若く、なにか頼りない、民主党。しかし、今の彼ももう、歳を取った。党も離れる。敵はあの長島一由だという。長島の思い出については、逗子に行ったら書く。


 さて、私の目的は、信州屋であった。「しんしゅう」と呼ばれていた。絵に描いたような駄菓子屋で、絵に描いたような食えない駄菓子屋のおやじがいた。その当時ですら、こち亀の世界にしか登場しないような……、つまりは、両津がふらりと訪れて、古いプラモの山からお宝のG.I.ジョーを掘り出すといった、そんな店だった。もちろん、駄菓子、ゲーム機、抱き合わせのドラクエ……。
 信州屋がすでにないことは、知っていた。小学生を出てから、滅多に訪れなくなったこの界隈、選挙権を得て近くの中学校を訪れて、そこで見たのはアパートだった。今は、このような住宅になっていた。信州の親父が住んでいたらおもしろいのに。


 髪の毛が落ちていて、私は怖くなった。

 私が通わなかった地元公立中学校。私が怖がっていた公立。足を踏み入れたのは、上に書いた選挙のときと……、小学生のころ。腰小にはプールがなく、ここのプールを借りていた。着替えは、プール脇だ。そうだ、そのとき、なかなか大胆に着替えする私たちを見て、中学生のお姉さんが、キャーキャー言っていたおぼえがある。……甘美。

江ノ島の方へ


 腰中の脇から出て右折、江ノ島の方に向かった。本当は、ここを左折しても記憶の宝庫なのだ。追憶の道である。しかし私は、湘南江の島駅に行かねばならなかった。また、右折したところで、記憶がないはずもない。
 さて、ここはかまくらベーカリーである。小学校給食のパンは、ここで作られていた。また、社会科見学として、パン作りの現場を見に行ったこともある。私はその感想文に「工場に入ると、へんなにおいがした」と書いた。とくに怒られるわけでもなく、「パンのいい香りがしました」と書いた女の子の作文と対比されてだけである。公平に扱われた。


 神戸川である。「ごうどがわ」と読む。あまり綺麗な川というイメージはない。川というには、あまりにも頼りない流れだ。ただ、私にとっていちばん身近だった川は、神戸川かもしれない。この橋の向こう側にも、友人の家があったりした。もっと西鎌倉寄りには、田んぼなどもあって、小学校で米作りなどやらされた。


 江ノ島を望む。私にとって江ノ島とは、このくらいのものでもある。この近くに、なんとかいうラーメン屋があった。子ども会のソフトボールの打ち上げで、そこにみなで行った覚えがある。いきなり大量の客だ。麺が十分にほぐれないまま出てきた。私はほぐれていない麺と、くっついた米が苦手(ゆえに、学校給食の白米は地獄!)という、どこの貴族かというガキであったので、難儀した。その上、最近その味を覚えたらしい友人が、「ラーメンに酢を入れると美味しい」と、自分のものだけでなく、周りのどんぶりにも見境なくたらした。私は今でこそ酢を愛好する人間だが、そのころはおおいに苦手にしていたので、もはやそのラーメンを食べることができず、人にゆずった。


 奥に見えるケンタッキーは、おもに祖父のことが思い出されるケンタッキーである。パーキンソン病を患っていた祖父は、リハビリというか、歩行のために、ここの砂浜を訪れた。私がまた小さかったころだ。祖父は、杖をつき、ゆっくり、ゆっくり、しかし着実に、砂浜を歩いていった。やがて、蜃気楼の向こうまで行った。帰りに、ケンタッキーに寄るのが習慣だった。私は、コーンが好きだった。


 江ノ電、路面ゾーンである。ここの線路の溝に、自転車のタイヤがはまった悪夢がよぎる。ちゃんと、角度をつけて渡らなければならない。ただ、今思えば、なにかしら逆走していたんじゃないのか。


 「やおみね」である。ここはもう、私と私の家の生活圏ではない。また、買い食いをしたりする場所でもない。ただ、何度か訪れた。そのうちの一つの目的は、ビックリマンシールだった。ほとんどオランダのチューリップ市場のような価値を持っていた、本物のビックリマンチョコ、それを求めて、私たちは方々のスーパーマーケットを訪れた。……やおみねだったか、やまかストアだったか、私と友人は、ビックリマンチョコを見つけた。だが、そのビックリマンに、シールは無かった。誰かが、売り場で袋を開け、シールだけ抜き取ったあとだ。犯罪現場、私たちは色めき立った。そして、勇気を出して、店員にこのことを告げた。そこに、下心がなかったといえば嘘になる。「君たちは感心な子供だ。お礼にビックリマンチョコをあげよう……」。そんなことは起こらない。むしろ、疑いの視線すら向けられた、と感じたのは後ろめたさゆえだろうか。
 しかしこのあたり、子供心にも不思議に思うことがあった。「このあたりは江ノ島という観光地なのに、こんなに観光商売っ気がなくていいものだろうか」と。そのころの私は、まだ感傷と敗北のモノレール主義者とは言い難かったようだ。光ある江ノ島を志向していたのか、単に銭ゲバのませたガキだったのか。ともかく、こんな江ノ電の通る道なのに、観光地らしくない、と。やおみねや岡田書店(……この日も見掛けたが、なにかよくわからないことになっていた)、その他、日常の店ばかりではないか、と。腰小指定の体操着や帽子を扱う洋品店ばかりではないか、と。
 今も、その思いはある。そして、街並みの方も、ちょっとその方向に来ているようにも見えた。が、思うに、もしもここが、梅宮辰夫のコロッケ屋だか漬け物屋だかの観光地的ショップが建ち並んだら、どうなるだろう。ただでさえ狭い対面二車線に江ノ電が挑み、その間を歩行者と自転車がちょろちょろと行き来する修羅場、もし観光客で溢れたら、江ノ電のダイヤがインドかどこかのルーズさになってしまう。そんなことでは、松岡女子の生徒も、藤が谷の生徒も困ってしまう。それではかわいそうだから、ここらあたりの腰越は、腰越のままなのである。これも昭和の人情なのかもしれない。

→諏訪ヶ谷〜西鎌倉編につづく(予定)