たとえ、わたしがあなたの孫でなくても

 誰しも、記憶や認知力の衰えを自覚し、また、指摘、非難されると大きな不安や不快に襲われる。それらの苦痛から逃れるためには、目に入る「環境」の中から、記憶や経験を手がかりに、最も不安の少ない世界をつくり出し、それを「現実」として生きる。そんな老人の「世界」を壊さず、意味が通らなくても、笑顔で会話し、敬意をもって接してくれる人々のつながりが多ければ多いほど、異常な行動はおこらなくなるそうだ。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201101270224.html

 母方の祖母は年相応の認知の衰えと、パーキンソン病用の薬の副作用で、なかなかよくわからないことになっているところがある。孫である自分を見て、母や私がもそれがそうであると説明してもわかっているかどうかよくわからない。わかっているのかどうかこちらがよくわからないのに、わかっているということにして彼女の孫である自分としてふるまうことについて、わたしが彼女の孫であることはたしかなことなのにも関わらず、わたしが彼女の孫を演じているべつの誰かであるような気になり、そのことについて少なからぬ後ろめたさをおぼえる。
 しかし、彼女の認知するところの世界にとってわたしが彼女の孫であるところのわたしであるというところを彼女に納得させようとすることが、あるいは大きな不安や不快なのであれば、それはともかくとして、どこかに置いておけばいいことなのかもしれない。わたしはあなたに会いにきた、あなたにとって不安や不快でないなにものかなのです。祖母がそう感じてくれたのならば、それでいいのではないだろうか。たとえ、わたしが彼女の孫であろうと、そうでなかろうと。そう考えられることは、大きな救いではないだろうか。たとえわたしが何ものであろうとも、そのときどきにおいてわたしはあなたの息子にもなれるだろう、孫にもなれるのだろう。それに正しいも間違っているもない。ひとときの人間の交流があって、それが宇宙のはじまりから終わりまででもかまわない。
 こんにちは。
 さようなら。
 またね。