なでしこジャパンからプロスポーツの未来を想像する(頭の中だけで)

わたくしとなでしこジャパン

 なでしこジャパンから、などと書きましたので、まずはなでしこジャパンのご活躍に心よりの敬意を表したいと思う所存ではありますが、今回の大会につきまして、わたくし一試合も見ておりません。たまたま興味や生活リズムとのタイミングが合わなかったせいでありまして、べつにサッカーが嫌いであるとか、女子サッカーが嫌いであるとかいう話ではありません。たまたまタイミングがあってチャンネルを合わせておりましたら、洪水の如き実況ツイートの一滴となっていたでありましょうし、ワイドショーやなにかを梯子して見ていたでしょう。だいたい私がワールドカップやオリンピックで示してきた態度を見れば明白なのであります。とりあえず地上波くらいまで流れてきたものに食いつく。その興味はつづかない、これであります。

ミーハーは悪いのか?

 さて、こういった人間、おそらくは少なからぬ人間に対して「普段から女子サッカーを下支えせず、いいとこどりの消費をするけしからん輩だ」という論があり、わたくしも耳が痛い。
 ……いや、痛くない。なぜならばわたくし、そういうミーハー的態度、一過性のブーム、浅薄な興味を肯定するからであります。たとえば競馬ファンのはしくれといっていいと思うが、たとえばディープインパクトブームがあったらあったで、ディープインパクト見たさだけで競馬に興味を持つ人間がいてもいいし、その後いっさい競馬に興味を持たなくてもいいし、まったく好きにしろと考えるタイプの人間であります。ディープインパクトの出るレース、横浜の場外馬券売り場で、そんなところにはじめて来たと思しきおばさま三人連れが「江川(卓)が言ってたの買いたいの!」と手書きのメモを有人窓口で言っておりましたが、あれはすごくいいのです。そのおばさまたちが、二度と競馬に興味を持たなくたっていい。
 ただ、中には、ほんのわずかに、ブームが去ったあとも、帰り損ねた人間が出てくるわけであります。100人のうちの1人か、1000人のうちの1人かわかりませんし、オリンピックやなにかというレベルになれば、もっともっと少ない確率でしょう。ただ、なにかのコアなファンになるなんてことは、あまり簡単な話じゃねえぜ、と思うのであります。100人が見て、90人、いや10人でも熱心なファンになってしまうスポーツ興行があれば、今ごろプロ野球Jリーグなど問題にならない規模のものになっているのではないか。まあともかく、そのジャンルに興味をもたない人間にまで存在を知られる機会というのはなかなか稀なことであって、一時的に従来のファンを不快にする衝突のようなものもありはしましょうが、結果的に砂金探していどの新規ファンが残るチャンスではないかと、こう考えるしだいであります。

人に金を落とさせるのはむずかしい

 人がなにかに興味を持ち、金を落とす、それはそう生半可な話ではない。みなとみらいでも野毛でもいいが、大道芸をやっていて、人だかりができる。ただ、終わりにさしかかり、そろそろおひねりの時間かとなると、スーッと人が引いていく。そんな光景を見たことはないだろうか。スーッと引いていった人をバカにして見下すのは容易いが、やはりそういうものではないかと思うのです。
 「お金を払うほどではないが好き、興味がある」という状態もあるわけです。無料で見られるから見ているんだ、程度の好き。これを段階とは呼びたくない。結果的に段階になる人、のちにコアなファンになる人はいる。そういう状態のままの人もいて、あるなにかがあったとして、うまくいくと、そういう状態の人がすごく多くなる。
 今後どうなるかはわかりませんが、日本女子サッカーも最良の形で注目を集めた。その状態まできたということです。だからといって、どれだけの人間が残るかはわからない。いくら彼女らの境遇の悲惨を訴え、高邁なスポーツ文化への理解を訴えたところで、「金を払うほど好き」になる人間が増えるかどうかというと別でしょう。
 そう、日常的な趣味としての女子サッカー、今後はそれに金と時間を使う人がどれだけ出るかという話になるのです。それはシビアな戦いです。そのライバルというものはプロ野球であり、テレビゲームであり、囲碁であり、将棋であり、釣りであり、労働であり、休みの日は寝ていたいという疲労であり、あるいは同じサッカーであるJリーグであり他国のリーグかもしれない。もちろん、掛け持ちも可能ですし、非常に精力的にいろいろなものにお金と時間を使える人もいるでしょう。ただ、おおよそお金と時間に余裕のある人など頭数的に限られていますでしょうし、そんな中、ある人間の趣味、生活に食って入るのは、甘くないのです。厳しい言い方になりますが、代表戦の盛り上がりが日常を支えるポテンシャルを意味するわけではありません。もちろん、そうなる可能性もあります。また、成功か失敗かと簡単に決められるものでもないのでありましょう。

趣味を説得する不毛

 人の趣味、嗜好に、理屈の説得というのはあまり意味がないように思える。いくら世界中の人が熱狂しているファンの多いスポーツだといったところで、サッカーが退屈な玉蹴りにしか見えない人もいるでしょうし、プロ野球を見ていても「後ろの方の人たちが暇そう」という感想しか持たない人もいます。まず好きになるなにかがあって、理屈に行く……場合もある。
 そして、たまたま日本代表だから応援していたら勝っておもしろかった、だけ。そういう人ももちろんいる。そういう人たちに「その態度は軽薄でスポーツの真髄をわかっていない」と言ったところで意味はないでしょう。日本代表戦は国内リーグと同じではないし、有馬記念は競馬と同じではない。まあ、後者は最近あやしいかもしれないが、ともかく、戦術も技巧も、ときにはルールすらわからずとも、ワーワー観ていたら楽しかった、それがスポーツの楽しみであってなにが悪いのでしょうか。

マスメディアには失望している

 では、日本代表、日本人選手の活躍となると、その部分だけ過剰に騒ぐマスコミが悪いのか。悪いといえば悪いが、どうもわたくしは諦めているところがあります。わたくしの子供時分といいますと、日本プロ野球がスポーツ報道の中で今よりもなお幅を利かせ、その中のほとんどを読売ジャイアンツが占めておりました。わたくしは関東在住カープの子として、偏向報道というものを身に染みて感じておりました。嫌悪というより憎悪に近いのであります。もちろん、今現在の野球報道の量を憎悪している他競技のファンも同じようにいるのでしょうが。
 ただ、その当時はそれだけ野球ファンが多く、巨人ファンも多かったのでしょう。その多いものに向けてうけるものを書いて売りたい。マスコミがそう考えるのは致し方ないでしょう。そういう商売なのです。
 そこにあぐらをかいていたせいか、たとえば野球についてろくなものは読めないし、中継なども十年一日。テレビ局などもひどいもので、インタビューでも「今のお気持ちは」、「どんなことを考えて打席に入りましたか」と、機械でも言えることしか言わない。野球に限った話ではなく、どんなスポーツ中継でもそうです。「今のお気持ちは」、「応援しているファンに一言」。なんのためにお前の頭の中に脳味噌が入っているのかと言いたい。
 むろん、それら報道のレベルが底上げされ、広く、それなりに深くになれば悪くないとは思います。また、あるテレビは野球、あるテレビはサッカー、あるテレビは磯釣りなどと、特色を出していくのもいいでしょう。が、そんなの期待するだけ無駄じゃねえか、という思いのほうがはるかに強いのであります。スポーツ新聞など、昨日まで藤澤厩舎担当だった人間が、次の日には読売巨人の担当になる。そういう世界で、サッカー選手にサッカーの話ができる人間が育つはずがありません。そこから変わることができるのでしょうか。また、わたくしなどは一見して理解出来ないくらい専門的なことがずらずら書いてある方がおもしろく感じる人間ですが、そうでもない人より数的に多いかどうかわかりません。

マスでないメディアに期待している

 しかし、それでも世の中には専門メディアというものがあり、専門家というものもいる。複雑でむずかしいことがらを解きほぐして解説できる人、コアな部分をおもしろく伝えられる人、専門用語ばかりだが、ほとばしる熱情から目の離せない人、各分野にいろいろいるのであります。そして、それらの専門的な言葉の一部が、ネットで手の届くところにある。無料で読めたりする。ここに昭和との決定的な違いがあり、希望があるようにも思います。
 そう、その世界にチラッと興味を持った人間が食いつくような言葉が、無料で読める。これはかなり大きくないでしょうか。もちろん、専門誌は昔からあった。ただ、やはり金を払うということの障壁というのは、そのもの販売価格より高いわけでありまして、やはり手が出にくいという部分もある。ものによっては、街の書店に置いてないかもしれないし、目に届かないかもしれません。しかし、これが検索とワンクリックで読めたらどうでしょう、と。
 もちろん、ただで読ませてばかりでは、専門メディアもめしが食えない。マネタイズの問題は出てくるが、ただ、マスメディアのカバーできる範囲も、容量も、性能も限られている以上、その領域は重要なように思えます。
 あるいは、従来のようにプロばかりでなく、そうとうに詳しいアマチュアの論者なども数多くいるでしょうし、読み手の求めるレベルに応じたものが手に入る確率も格段に高い。ときには論争なども目の当たりにできるかもしれませんし、多くの人間が書き込んでいる匿名掲示板の中に、なにか光るものも見つけられるかもしれない。また、ツイッターなどの実況という形で、そうとう詳しい人間の書き込みを読めるかもしれませんし、インターネットというのは結構すごいんじゃないかと思います。

マスでないメディアに期待できないこと

 なんとなくマスメディアの報道で物足りなくなった人間が、やや専門的なところに入る。まあ、さっきはネットのことを書きましたが、もちろん専門誌でもいいでしょう。ちなみに、わたくしは友人がおりませんので、詳しい友人を作る、などという発想は出てきません。まあともかく、そこから現地観戦なり、有料放送なりにつながっていく、そういう話でしょうか。たぶん、有料放送を買えば、専門的でナイスな情報が満ちあふれているのに違いありません。知りませんが。
 そうだ、わたくしは有料放送というものを知らないのでした。結局、競馬についても野球についても、そこまでのファンではない、のです。あるいは、格闘技なども地上派ではわりと熱心に見る方でしたが、地上派から去っていったあとに追いかけるほどでもない、のです。まあ、馬券は買う、競馬の血統情報は買う、東スポは買うと、金を落とすとすればその程度の人間。まったくのフリーライダーなのであります。そういう人間が、「金を落とさないミーハーもファンのうち」だのなんだの言ったところで説得力があるかといえば、まったくないでしょう。
 が、まあそれは置いておく。べつにわたくしだって、ほかの何か、カメラや自転車や本や音楽や映画などを削れば、ケーブルテレビ経由かなにかでいろいろのスポーツチャンネルを契約するくらいの余力はある……か、あったのか、まあよろしい、あるとしよう。ともかく、そのあたりも、昔と比べたら格段によくなっているはずです。海外のいろいろの競技がそれなりに観られるようになっているのではないでしょうか。また、プロ野球ニュースが有料化して、地上波にすぽるとが残されたように、従来の競技でもより専門的なものが見られる。相撲だって序二段くらいから見られるわけです。まあ、テレビという媒体にとくに意味もなく、将来的にはインターネット越しに十分な画質で観戦できる日はくるでしょう。
 しかし、です。しかし、やはりそれでよしとできないところも残されている。まったく知らん人間の目に触れる機会がない、ということです。プロレスなどは、地上波から姿を消したことが衰退の原因の一つと考えられていますし、プロ野球とて同じ問題もある。Jリーグなども苦戦しているかもしれない。ただ、これはこの話でとくにわからないところで(あ、俺、なにひとつわかってなくて勝手に想像して書いてるから)、プロ野球など放映権料を背景にした読売一極体制が崩れ、また、北海道や福岡などへの球団移転などもあって、よくなってんじゃねえの? みたいな気もするわけであります。ただし、いまだに、人目に触れないメリットというのは大きいはずです。インターネットでどこかのサイトにアクセスするのと、テレビをつけてチャンネル回すことの、能動性の必要度は大いに違う。
 たとえば、ファンにとっては相当ひどい代物だったらしいが、わたくしは何年か前にフジテレビでやっていたツール・ド・フランスのダイジェスト放送をけっこう楽しんで観ておりました。そのころは、自分の自転車など持っておりませんのでメーカーもなにも知らなければ、選手の名前の一人も知らないし、「ツール・ド・フランス」という単語くらいしか聞いたことがなかった。ただ、なんとなく素敵な風景の中を色とりどりの勝負服が駆け抜けるのをちょっとみたくなった。それだけです。その結果、いくつかの人名、ヤン・ウルリッヒですとか、リシャール・ビランクマルコ・パンターニ悪魔おじさん、また、マイヨ・ジョーヌマイヨジョンヌの方が馴染み深いですが)のほかにマイヨ・ヴェールとかなんか水玉のがあること、ドイッチェ・テレコムという言葉のひびき、そんなものは今でも頭の中にあるわけです。
 まあ、結局ファンにはならなかった。そのころは今より経済的な自由がなかったと思いますし、ネットも存在自体どうだったか。ともかく、そこどまりで終わったわけです。しかし、なにかちょっと環境が違えば、これを入り口として自転車競技観戦脳の恐怖に突き進んでいった可能性もあるし、たぶんそういうやつもわずかながらにはいるでしょう。
 話をもとに戻せば、専門的なものは専門局にとなっていったら、いったい新しいファンはどこから来るのか、という話です。なんども書いたことだから長くは書かないが、たとえば自分が競馬をはじめたのは、たまたまつけたテレビでスティールキャストという馬が大逃げを打っていて、「母親のプリティキャストを彷彿とさせます」とかいう実況を聞いたからでした。その機会、馬鹿にできないように思うのですが、観測範囲が狭すぎるでしょうか。

プロである必要、マスである必要はあるのか

 適当な予測をさらに進めましょう。今現在起こっていると言われていることだが、スポーツに限らず趣味の多様化というものがあります。国民全員が見ていること、知っていることが前提、みたいな話はなくなっていくわけです。今、マスメディアで野球報道が偏重されているという話もあるかもしれないが、なにかが野球に取ってかわったところで、もうそんなに影響力はないよ、くらいの話になる。各ジャンルはそれぞれ固定化したファンがつくが、市場規模的な意味で大きくなることもない。全国区という人気もなくなります。オリンピックのような突発的な人気はあっても、それに食いつくような貧乏の暇人は専門ジャンルに入っていけないわけです。
 そう、日本の経済状況はどこにも楽観できる要素はなく、企業が社会人スポーツをやる余裕もない。人びとの財布のひもはますますかたくなるし、そもそも財布に金が入っていない。となると、スポーツで飯を食うみたいなことも難しくなってくるのではないでしょうか。日本競馬のように立場が特殊で売上が大きなウェイトを占めるものなど、とっくに消滅していることでしょう。
 さすがに、プロ野球Jリーグ、あるいはゴルフとかそのあたりいくつかは残るでしょう。海外につながるものは、二軍のような形で残るかもしれない。南米と大リーグの関係のように。となると、野球などひょっとしたら独立リーグレベルになっていくかもしれません。そう、ほかに職業を持ちつつスポーツもやる、今の女子サッカー選手のような境遇。これがむしろ、普通になるのでは。
 それは悪いことなのでしょうか? 純粋にアスリートの側からスポーツとして見るならば、悪いに決まっている。それに専念できる環境、充実した施設、引退後の安心、なにもかもあった方がいいに決まってる。記録として過去と対峙する分野であるならば、それが不可欠ですらありましょう。
 しかし、一方で、プロスポーツ、商業化したオリンピックや高校野球みたいなものも含めて、これの弊害というものもあるはずです。生活と地続きのところにある、地域に密着したところの、なにかそういったスポーツのあり方、そういう面は決して悪くないのではないでしょうか。北ではスケートやカーリングに夢中になり、南ではえーと、ビーチバレー? とかで、無理してみんな野球やサッカーを見ることもない。……って、うまくそういうスポーツを根付かせている国もありそうですが。
 まあ、世の中その選択や両立を許す余裕がないわけであります。大衆の投じる金で、各分野の優秀なアスリートを養えない。さらに言えば、スポーツもまた世の中の数ある娯楽の一分野に過ぎず、伝統芸能でも現代芸術でもなんでもいいが、そういったものに比べて特別視してくれと言えるだけの根拠はありますまい。あらゆる分野が縮んでいくし、かといって人びとは食うことを優先せざるをえない。また、そもそも人間の数が減っていくわけです。少なくとも、日本では。
 そう、日本では。もうしばらくしますと、この国から中流のようなものはいっさいいなくなり、少数の大金持ち、政治家や東電の正社員のような貴族階級とその子孫と、多くの寿町系人間だけが残るわけです。ただ、それもまた一時のことで、今、発展途上国だとか、それ以下という国の労働者が豊かになっていき、日本の労働者の賃金と釣り合いがとれたとき、世界的中流復活があるのではないでしょうか。そうなればまた、プロスポーツにうつつを抜かせる世界が復活するかもしれないし、いろいろなものが世界規模で繋がってくるかもしれません。楽天的でしょうか。より一層富めるものが肥え、大量の貧乏人が地を這うのか? それなら、貴族の娯楽として競馬が復活するかもしれませんし、種牡馬の精液はそのためだけに冷凍保存しておくのが望ましい。
 まあわかりません。少なくとも百年、二百年のスケールの話でしょう。日本が残っているのかもあやしい。あやしいが、とりあえずスポーツなり文化なりに金を払えぬ余裕のない国というのはすぐにでも到来する。あるいは、たとえば横浜のオーケストラだかなんだかが存続の危機とかいうように、とっくに訪れているわけです。むしろその中で、半プロのようなありよう、これはこれでありじゃないかという、それが悲惨にならずに生きられるような仕組みというか、ありようというか、あるいは視線が必要なのではないでしょうか。たとえば、音楽にしても、メジャーデビューして何百万枚もCDを売って、というような図式は消えつつあるように思える。各人が好きなように作り、少数でもそれを好きな者が買う。それだけで暮らせるほどではない。それが普通、となる。
 ……それがいいかどうかはべつです。やはり音楽にしたって、最高の機材や最新の技術、ギャラの高いプロの粋を集めたところでだけ生まれる何かがあるんじゃないかとは思う。あらゆる創作物において、娯楽において、そういう部分は必ずあるはずです。しかし、残念ながら、そうとばかりは言っていられない。そんな感じじゃないんでしょうか。
 いや、ひょっとしたら、一部の大金持ちがパトロンとなって、かつての王侯貴族がやったようにやるかもしれないし、それも一興といったところでしょうか。そうなると、感動ほしさの大衆に媚を売るより、金持ちの名誉欲に取り入った方が得策かもしれない。そういう意味では、競馬は生き残る可能性がないとは言えません。あるいは、海外のプロスポーツなどのニュースを見るに、どうも大金持ち個人オーナーの存在というものが目立ち、日本のように会社的でないようにも見える。そのあたり、世界じゃそうなんだぜ、というところもあるかもしれません。

 ……って、長くなってしまったが、なにも自分の中でまとまっていないし、頭の中だけでやっているからいけない。かといって、なにか統計みたいなものにあたる学も根気もありゃしない。でも、俺がいつかいつかの俺の頭の中を見たくなるかもしれないので、こうして残す。おしまい。

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 野球やサッカーが商業的に成り立つ人気スポーツなのは、たんなる偶然にすぎねえんだし、あるスポーツがある国や文化の中で人気するかどうかなんて、合理的なものじゃねえだろうに、という思いは昔からある。