互に言語を通ずることを得ざらしめん世界でマックの女子高生はいかに生きるべきか

いや、使い回しなんだけど
 アタシ、さっきマックにいた女子高生なんだけど、(……このまま宇能鴻一郎文体でいくかどうか思案中……)、公共サインにおける複数言語表記についていくらか言いたいことがあるので、言いたくなったきっかけのリンク先がいささか不満なれども申し上げたきことがある。
 公共サインには三つの制約があるといっていい。
 一つ目は役所の出してくる仕様である。
 二つ目は予算の制約である。
 三つ目は物理的な面積である。
 ……などと三つに分けてみたけど、面倒くさいからぐだぐだにするってマックにいた女子高生が話していたんだけれど、入札やプロポーザルの段階で仕様に「英・簡体中国語・繁体中国語・ハングル翻訳」とか入っていたら、それに応じるほかないのである。コンサルとして計画段階から入り込んでいるとかいう話でなければ、そういうものであって、こちらとしては叩き合いの末に奪いとったら、そうするよりないのである。まだバブル(の余韻?)あるころ、某港町が某有名インダストリアルデザイナーを雇っておしゃれにするような話があって、「国際港なのだから多国語表記がいいんじゃないかしら」ってなって、それで、実際に一番多く当地に訪れるところのロシア人船員などにアンケートを取ったところ(そんなことする予算まであった時代なので、アタシとかぜんぜん働いてなかったころです)、「べつに英語でいいよ」みたいな結果が出たとかいう話があったりなかったりしたということであって、まあはっきり言ってしまえば、「日本語と英語の二言語表記で十分じゃねえの?」というあたりはある。
 だいたい、外国から旅行に来る(……まあとりあえず観光地の話ということにしておいてください)層は、それなりに金もあるし、教養もあんだろ? みたいな気もする。が、横浜はじまったな市なんかはワールドカップ以来らしいが(これは推測)、一回でも三つ、四つとなると、役所は前例踏襲となるわけである。たぶん、足すより減らす方が彼らにとって大きな重圧だ。予算とか、補助金とか、金は減る一方だがな。
 ま、ともかく、やっぱり日本語含めて三ヶ国語(……国と言語が一対一というわけではないからポリティカリー・コレクトでないかしら)、四言語、五言語(この言い方も違和感あるけど。このあたりになると、地域差もあるだろうけど、仏・独というのはあまり出てこないでスペ語の方がまだあるか。いずれにせよ、このあたりについては「英語でいいんじゃね」判断の対象という気もするが、そのあたりはわからん)というのは厳しいのである。なにって、面積的にだ。駅名表示くらいならいいが、もっと解説の文章が入ってくると厳しいものがある。さらには地図なんかは、そうとうに可読性が落ちる。まあ、地図で四つというケースはほとんどないと思うが、日・英でも厳しい。看板というのは面積が限られているものであって、しかもできるだけわかりやすく、見やすいものでなくてはならない。できるだけ多くの人にわかりやすくなくてはならない。文字のサイズが小さくなれば、そのぶん読みにくくなる(場合が多い)、地図で文字が道に重なったり、重なるのを避けるために変になったりするのも避けたい。世界標準というか、直感的にわかるようなピクトグラムも使いたいが、そればかりですべての意味も賄えない。あっちを立てればこっちが立たぬのだ。
 しかし、この制約というものも、技術的に克服できぬわけでもないだろう。住友3Mのインクジェットシートはすばらしいが(安物はすぐに劣化すんぞ)、かといって無限に面積は広がらぬ。だが、デジタルならどうだろう。デジタルサイネージ的ななにか。モニタのようななにかが時間差や利用者の要求によって表示面を変えることができたら? まったくどうにでもなる。あるいは、人間の側が、AR的ななにかによって自分の言語による案内を受けられればいいのだ(……って、看板必要ねえじゃん)。まあ、後者はともかく、前者みたいなものは……実用化されてるのか? いや、たぶん実用できる技術はあるだろうが、でもお高いんでしょう? ということだ。初期費用がバカ高い上に、そんな電源も必要、機械のメンテナンスも必要なもの、はっきり言って今の御時世ムリダナ、と。ともかく、不景気だし。いや、どっかあるところにはあるのだろうが、基本的にねえよ。
 まあ、そんなわけで、マックの女子高生は、数言語の翻訳を手がけているいつもの翻訳業者に翻訳を依頼するわけだ。いろんなところに出してニュアンス差が出たら嫌だから。さらに、これこれこういう場所にこういう風に設置されるものである、ということをイラレで描いた躯体図をフォトショップで予定場所に合成したりすんだよ(マックの女子高生は施工後写真の方がうそ臭くなるくらい無駄に丁寧に仕上げるのが趣味なんだけど)。それで、上がってきた翻訳を、Google(イメージ)検索とかにかけて、当該言語使用国の看板で使われてるかどうかとか、チェックしたりとかすんだよ。
 それでもやっぱり限界があってさ、文章とかになると、なんつーのか、字詰めとか改行位置とかジャスティファイした方がいいのか、句点とか読点っぽいののベースラインはこれでいいのかとかさ(やったことないけど、アラビア語になったら完全にお手上げの予感がする)。それで、結果として、なんかこう、日本人が外国行って変な看板あったぜ、ほどひどくはないにせよ、なにか違和感のあるものになっちゃってんじゃねえのかとか、悩みはつきない感じはあって(まあ、先にデザインがかっちり決まっていれば、アウトライン状態のイラレでもらったりするとか、翻訳業者にネイティブチェック頼むこともできるが、金と時間とかの制約あるし)。そんで、でも、ねえよりはマシだろ、くらい開き直ったりしてさ。
 まあ、ねえよりはマシだろ、というところもある。マックの女子高生は日本から出たこともないし、これから出ることもないだろうが、外国でつたない日本語の看板とか見たら、なんかわりと悪い気はしないんじゃねえの、とか。たとえ英語のほうがわかるよ、というものであっても。「あ、アタシここにいいのかしら? Welconeされてるのかしら?」とか思ったりさ。まあ、しらんけど。
 それで、主に観光に話を絞るならば、「英語で十分なんだけど」とか「つーか、iPhoneとかでGoogleMap見るから」とか異国からの旅人が思ったとしても、まあどうなんだろう、そんなに悪い気がしないんじゃねえのとか。でも、採用されてない言語の人にとっては逆につまらんかもしらん。英語だけの方がいいかもしらん(べつに英語崇拝論者でもねえけど、あれ、エスペラントとかズィレンゴより普及してんだろ?)。そのあたりは、そのあたりにどこの国や地域からどんだけの人が来るかとかに応じて、よろしく適当にやるしかない(某県某湖付近にあまり豊かではないアジア某国の富裕層がやけにやってくるのでどう対応したものか、みたいな話とかあるし)。
 まあ、結局、去來我等降り彼處にて彼等の言語を淆し互に言語を通ずることを得ざらしめんとか言ったやつのせいで、いろいろとよろしく適当にやるしかなくなった。これがその世界なのだから仕方ない。なにも言語の違いに限らぬ。眼の見えぬ人に点字標識がどこまで有用であるか、音声ガイドはいかにあるべきか、考えなくてはならないことは多いし、できる限りのことはしなくてはならない(施工がいい加減な仕事だと点字サインなんて逆に貼られたりするから、依頼する過程できちんと指示を明確にしておかなければいけない)。そもそもそれが必要なのかから検討しなおすべきことは数多くある。良かれと思ってはじめたことの前例踏襲がまったく良くないことなんてたくさんあるはずだ(もうQRコード流行ってないです、とか)。
 しかし、たとい言語を同じくするもの同士でもまったく話が通じん、地図が読めん、誘導も立入禁止も目に排卵(嫌な誤変換だな)、そんなことは日常茶飯事だ。いつだったか、新しい新幹線かなにかで子供がトイレの緊急停止ボタンを間違って押してしまったという話があったが(あれはデザインがひどかったような気がする)、それはそこらへんの公共トイレでも日々行われていることであって、やはり四ヶ国語とピクトによる注意書きが必要になったりするのだ(「これは水を流すボタンに非ず、水を流すのは後ろのレバーなり」みたいな。まあ、日本の異常に進化したハイテックなトイレットの驚異から勘違いする外国人がいても驚くに値しない)。われわれは日々ロスト・イン・コミュニケーションの中を生きざるをえず、どこかしらよろしく適当にやるしかない。北一輝が革命に成功していたら、マックの女子高生くらいの世代なら神類に進化していたかもしれないが、それもバベルどころか土台から無理な話だ。そのあたりはもう、マックの女子高生とあんたと大五郎では分かり合えないのが前提で、でもちょっと通じたらうれしい、くらいの期待値でいいや、くらいの余裕がほしい。マックの女子高生はそう思う。
 とはいえ、これがこと観光であればいいが、生命に関わるような話であったら笑って済ませられん。また、場合によってはこの国の中に日本語以外の言語を母国語とする人がよりいっそう多く住まうようになるかもしらんし、そうなったら言語のありよう、コミュニケーションのありようはどうあるべきか。言葉はなるようになっていくのか、ある方向性をもって変えていくべきなのか、あるいはその差異自体が存在するのか、それとも科学技術(ほんやくコンニャク)が解決するのか。
 まあ、マックの女子高生はそんなむつかしいことはわからない。今現在、与えられた条件の中でやるべきことをやって糊口をしのぐので精一杯だ。結局、マックの女子高生は税金の無駄遣いのおこぼれでいくらか食っているだけかもしれない。もっともっと賢く、エッジの効いた、最新の人たちが、いろいろの制約を自由に振りきって、無料のすばらしいものを提供する日が明日にも来るだろうし、それはすばらしいものだろう。すばらしい世界ではすばらしくないものは淘汰されるし、自死か路上か刑務所かの三択くらいは残っていて、そのときはマックの女子高生だけがわかる言語で書かれた案内標識に従って、進むべきところに進むだけの話である。おしまい。

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