承前:日中、開戦したってよ - 関内関外日記(跡地)
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おれが呼び出されたのは、すき家の2階だった。正確に言えば、かつてすき家だった建物の2階だった。おれはほとんど曲がらなくなった右足を、われながら感心するくらいうまい具合に操って、ドアの前に立った。すりガラスのドアをノックする。建てつけのわるいドア全体がべよんべよん音を立てる。ノックに向いてないんだよ、こういう事務所用のドアはさ。中から女の声がする。
「どうぞー、いらっしゃいませー」。
ドアを開けてみると、見覚えのある顔があった。年の頃は40くらい、飾り気のない美人で、すき家の一人勤務態勢をテキパキとこなしていた中国人だった。
女は書類の積み重なった事務机に座って手を組んでいた。
「お座り下さい」
おれは一脚だけ用意された、古びたパイプ椅子に座った。右足はほとんど曲がらないので、中途半端に投げ出す形になった。
「このたびは、お疲れさまでした」と女。
「えーと、ぼく……私がなにか、あなたがたにお礼を言われるようなことしましたでしょうか?」とおれ。
ようするにおれは、いまいち記憶がないのだった。いまいちじゃあない、かなりなくなっていたのだった。
「勇敢にも、突撃自転車兵として山手警察署に打撃を加えてくれました。足の負傷は名誉の負傷です」
そんな話なのだったかどうにもわからず、感覚のない右足を意味もなくさすってみたりした。
「勲章とかは用意できないですが、これを授与します」
と、女が差し出したのは、『季節のお味噌汁』のタダ券だった。しかも束になっていた。
「はあ、ありがとうございます」
胸ポケットにそれを突っ込みながら、おれ。今の季節はなにが入ってるんだろう? 今の季節もよくわからない。春なら菜の花だが……。
あたまいっぱいの菜の花畑の妄想を打ち切るように、女が事務的に話はじめた。おれは現実に戻された。なにが現実かよくわからないのだけれども。彼女の手元にはおれについてプリントアウトされたなにかがあって、それほど興味なさそうにめくったりしている。
「それで、お話ですが、他でもない、あなたには今後も、我われの協力者として、お力になってもらいたいという、ことです」
「はあ」
「ご存じのように、文化体育館周辺は、横浜文化労働思想工場地区として、稼働している。だいたいの労働者が思想的価値観ないです。無害だ。しかし、幾人か、右翼反動勢力の細胞が紛れ込んでいることが、調べてわかったのです。あなたには、労働者を装って、その動向を調べてもらう」
「つまりは、ダブルスパイになれということですか?」
「一つで十分です。わかってください。ダブルはいらないです。シングルです」
「はあ」
「ところで、あなたの最大の弱みは何ですか?」
「金属バットで頭を殴られると死にます」
「じゃあ、殴られないようにしてください」
それで面談は終わった。おれは足を引きずって階段を降りた。降りる方が、すこしむつかしい。
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おれが配属されたのは、人民Blu-rayディスク工場の検品係だった。一日中、蒼井そらのAVを見ながら、画像の乱れや、日本帝国主義に関する表現が紛れ込んでいないのかチェックするのだ。あと、モザイクのかかり具合も重要で、党幹部は無修正で、地位が下がるごとにモザイクが増えていくのだった。
元日本人にあてがわれるAVは、女が着せ替え人形を股ぐらにこすり付けるたぐいのもので、検品すらされていないという噂だった。
連れてこられたせまい検品室には二揃えの検査装置があるだけだった。モニタと、デッキ。モニタと、デッキ。先に一人いて、仕事を始めていた。見知った顔だった。おれを例の横浜市最終決戦兵器Y-153で送り出した、役人のRだった。おれは思わず「あ、どうも」と声をかけてしまった。Rは少し驚いたようなそぶりを見せたが「ああ、どうも」と答えた。答えるとすぐに、早送りの蒼井そらがものすごい勢いでカクカク動いているモニタに視線を戻した。おれも隣の席にすわり、そのようにした。
「生きてらしたんですね」
「ええ、おかげさまで」
そう答えながらも、おれは困惑していた。錯乱に近かった。Rは市の職員で、おれは彼の指示に従ったんじゃなかったっけ? すき家の女はなんと言ってたっけ? ポケットに手を当てると、たしかに『季節のお味噌汁』のタダ券の束はあった。
「その後、どうでしたか?」
おれは探りを入れることにしてみた。スパイの第一歩だ。
「いや、大変でしたよ。逃げようと思ったら、買ったばかりのアウディもぺちゃんこで」
「え、アウディですか? アウディ、残念でしたね」
Rの腕にはもうでかい腕時計はなかった。ただ、シャツは買ったばかりのユニクロみたいな感じだった。
「おれのほかの連中はどうなりましたかね?」
「……いや、あなた以外にはあれ以来会っていませんよ」
その後、二人の間に会話はなかった。目の前では早送りの蒼井そらがものすごい勢いでカクカク動いていた。ときには、おっぱいが三つどころか四つあるようにすら見えた。男優は腰を悪くするんじゃないかと思った。やがて、そんな思いすらかき消され、おれは真っ白のせかいに没入していった。
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何時間たったかわからない。突然モニタが真っ暗になり、ジリリリリリ……と終業のベルが鳴った。「遠き山に日は落ちて」みたいな曲が流れて、おれは夕焼けの、かつて関内だとか関外だとか呼ばれた路地に放りだされた。崩れ落ちて先のない坂道みたいになった高速道路の先に、夕陽が照ってた。それと重なるように、ものすごい勢いでカクカク動く蒼井そらの残像が見えた。おれは足をひきずりながら、家路についた。どこが家かもよくわかっていなかったのだけれど。
おしまい。