加藤忠史『躁うつ病に挑む』を読む

躁うつ病に挑む

躁うつ病に挑む

 このところ気分的に地の底に落ちるような時期があったとはいえ、漫然と医者に行き、漫然と薬を食べているばかりであった。自分の病気への関心、治療への理解、要するにアドヒアランスとかいうやつがおろそかになっていた。別にそれでも構わないのだが、久しぶりにその手の棚を見てみたらこの本があった。わりと新しい本だ。同じ著者の新書(『双極性障害ちくま新書)を読んだこともあったので、ちょっと借りて読んでみた。
 結果からいうと、まだまだ双極性障害躁うつ病)の原因はわからないし、なんで躁うつ病の薬が効いているかもわからないし、もっと研究費が必要だし、死後献脳のサンプルも足りないし、ということだった。だが、もうちょっと進めばいけるんじゃねえか、行くんだという著者の熱みたいなものは感じた。

 精神疾患の原因を分子レベルで同定できるようになれば、動物モデル研究にもちこむことも可能である。統合失調症を動物で再現することができれば、自我とは何か自我が障害されるとはどういうことなのかが、いよいよ動物でも研究できるようになるだろう。
 これまで主観の領域と考えられ、科学の土俵に乗せにくかった自我や感情などの精神機能の分子基盤の研究は、精神疾患脳科学的解明を契機に、一気に新たな展開を迎えると期待される。
「14 分子で心は語れるか」

 他の病気の場合は、最終的には、顕微鏡で見えるような病変の存在によって診断することが多い。しかし、顕微鏡で観察して診断できるような精神疾患の所見は、いまだ見出されていない。
 そこで、細胞あるいは神経回路のレベルで、顕微鏡で観察可能な精神疾患の表現型を見出しそれを研究しようではないか、と考えた。それがマイクロエンドフェノタイプなのである。
「20 マイクロエンドフェノタイプとはなにか」

 100年前には、いくら脳を見ても、精神疾患の痕跡を見つけることはできなかったかもしれない。しかし、現在の技術で調べれば、精神疾患は必ず解明できるはずである。
 歴史のなかでそれぞれの道を歩むようになった神経内科と一致団結して、精神疾患の克服をめざした研究を進め、いつの日にか、精神疾患も神経疾患も、脳の内科的疾患として理解されるようになることを願っている。
「22 これからの精神医学」

 たぶん、要するにだ、えーと、人間の精神、心といったものがもっと内科的に、いや、もっと言えば「もの」として扱える日が来るんじゃねえかということだろうか。いや、おれなどは脳など臓器の一部にしか思えないから、今すでにそう思っているところはあるが。そんで、脳の化学的不均衡とかいうやつを、もっと詳しく、分子のレベルで解明しようと。されるようになろうと。そりゃあいいや。いいに違いない。それで、たとえば、おれが服用しているベンゾジアゼピン系薬剤もオランザピンも過剰投与だとわかりゃ財布にも優しいときている。それこそ、内科的に健胃薬だのビオフェルミンだのレベルでスカッと効いてくれればいうことはない。
 ……と、しかしやっぱりそれってどうなの? みたいな話は出てくるんだろうか。それこそ自我とはなにかとか、人間の心とはなにかとか。そういうことを言い出す、心の元気なやつが出てくるんだろうか。どうだろうね、わからんけど、いまだ不十分らしい薬剤にかなり助けられている人間がここに少なくとも一人いるぜ、とは言いたいかな。
 そうさな、脳の働き、心の機序がすっかり解明されてしまって、あらゆる無力感、絶望、希死念慮、そんなものを駆逐した上で、その上でなんか残ってればそれがあれだ、ゴーストというやつだ。あるいは魂かもしれない。それじゃいかんか。なにも残らなければ、それはそれでいいじゃないか。不幸も悲しみも追っ払って、ぼくらは下着で笑っちゃう、それでいいじゃねえの。よくねえの? あんたはどう思うね。おれはもっとすばらしい薬ができたなら、笑っちゃえる用意はできてるよ、たぶん。
あ、あと、比較的最近ながら、すっかり忘れていたような政治家や力士の心の病についての報道なんかについても、専門家の視点で書いてあったりして、わりと興味深い本だった。と、とってつけたように感想を。

>゜))彡>゜))彡>゜))彡