ライトなビジネス書『宗教と哲学全史』を読む

 

なんかで本書を知って、手にとってみて「あ、思ってたよりすげえ分厚い」と思ったけれど、読み始めてみたら「新書やん」と思って安心した。宗教と哲学の全史というには、これでは軽すぎると思う一方、まあこんくらいでなくては読めないよな、とも思った。

と、いま、帯つきの書影をAmazonから出してみたら、「ビジネス書大賞」のなんたらを受賞しているらしい。なるほど、ビジネス書。おれはビジネス書というものを読んだことがないが、これがビジネス書なのか、とも思う。

とはいえ、べつにビジネスビジネスしているわけでもない。どちらかといえば、「教科書を読み直そう」的な感じ。高校の歴史と倫理の教科書を、宗教と哲学だけまとめて構成した感じ。

これが悪くない。高卒文系のおれが「単語は知っている」ことばかりが、おおよそ時系列、東西別に並んでいる。「ああ、そういうことだったか」、「そういう流れがあったのか」などと思ってしまう。思ったところで、頭に定着するのはその一部で、まあ結局はまた忘れてしまうのだけれど。

でもまあ、たまにこうやって振り返り、ほんのわずかでも知識の流れを定着させるのは悪くないんじゃないのかな。そのためには、わりと悪くない本なんじゃないのかな、と思った。著者の思想、あるいはまとめ方になにか問題はあるかもしれないが、「教科書を読み返す」的な本としては十分だろう。「あ、この単語、知ってる知ってる」という感じですいすい読み進められる。個々の内容に気になったら、原著(の翻訳本)などへの案内もしっかりついているので安心だ。

というわけで、なんというか、高校の教科書を読み返すという意味で、『宗教と哲学全史』は悪くない本だった。ちょっとだけ知識をアップ・トゥ・デートできるかもしれない。まあ、人間の思想、そんなに変わらないけれど。たしか吉本隆明は、紀元3世紀くらいには人間の思想というものはほとんど出揃っていたとか書いていたと思うけれど、まあそんなところだろう。

以下、本書の、あるいは宗教と哲学の歴史の些事をメモしておく。

 プラトンアテナイの由緒ある名門の生まれでした。本名はアリストクレスですが、彼のレスリングの先生から、体格も立派で肩幅も広かったので「プラトン(広い)」と呼ばれ、そのあだ名が通称となったと伝えられています。

これには諸説あって、広いのはおでこだとか、そういう話もあるらしい。ただ、プラトンレスリングをやっていたのは確かなことで、はあ、なるほど、ツープラトンなどと思ったりした。

ツープラトンの語源について - 関内関外日記

 

 「修身斉家治国平天下」

 天下を治めようとするなら、まず自分が努力して立派な人となれ。次に家族を愛し平和な家庭をつくれ。その次に国(地域)を治めよ。そして次に天下を平らかにせよ。この順序が大切なのである。そのような意味です。

これは孔子の言葉である。孔子は身長が2mを超えていたらしい。それはともかく、修身とはそういう意味であったかと思った。現代的な価値とは相容れない部分もあるし、なにより反出生主義者のおれにとっては斉家は相容れない。でもまあ、こんな価値観で政治家なんかが見られたりするのは、この現代においても変わらないよな、というところはある。儒教は根強い。

 

 話は少し横道に逸れますが、小島毅天皇儒教思想―伝統はいかに創られたのか』(光文社新書)という本があります。これは明治国家が天皇を中心とする国づくりを行う上で、いかに儒教の体系的なイデオロギーを借用して制度づくりに励んだかを明証したものです。

 逆にいえば、わが国の神道は、あまりにも没理論的で天皇制の創出には役に立たなかったということです。朱子以降の儒教は精緻な理論構築を行っていたのです。

その儒教についてこんな記述。国の制度づくりに役に立たなかった神道。それでも国家神道にまつりあげられ、戦後、折口信夫に「神道は宗教になるべきだったが、なれなかった」と批判される。いったい、神道ってのはなんなんだろうね、とか。まあ、本書では主な主題として日本の宗教家、思想家は取り上げられていないのだけれど。

ま、そんな具合。キルケゴールマルクスニーチェを「ヘーゲルの3人の子ども」としてしまうまとめ方は妥当なのかとか、20世紀の思想家を5人(著者は5人選ぶか30人選ぶかだったと、30人のリストも出しているが)しか選んでいないとか、そんでいいいのかとか、思わないでもないけれど、まあいい。おれの好きな革命家もアナーキストも出てこないけれど、まあいい。ちょっと分厚い新書だ。高校の教科書のまとめ直しだし、読み直しだ。ただ、そういうのもたまには読み直すべきだし、読み直したからなんだいという話だけれど、たまには悪くないんじゃないかと思う。そんなところ。