気づいたときにはすべて遅い。それはすでに終わっている。気づきは必ず遅れてやってくる。遅れてやってきたものを気づきという。すべての認識は遅い。
蜘蛛の糸に羽虫が触れた。その振動を蜘蛛が感知する刹那。刹那ではもう遅い。起きてしまったから感知したのだ。感知すべき対象そのものはどこにある。
知ることはすべて遅れてやってくる。そのものの残滓に触れることしかできない。知るのでは遅い。残滓にしか触れられない。
そのものであるには、自らがそのものであらねばならない。本当の世界であるためには、我が身が世界でなくてはならない。
われわれの言葉も必ず遅れてやってくるものである。ある人々はその遅れに気づき、言葉ならざるものを求めた。
言葉ならざるものを言葉にするという、無理と知りつつもそれに挑んできた人たちもいる。しかし、言葉は必ず遅い。
言葉はすべて終わったものである。われわれが意味を考えるものはすべて死んだものである。
もしもわれわれが生を求めるならば、感知が起きてからでは遅い。われわれは宇宙原初のそのときそのものになり、世界全体そのものにならなければならない。