ソ連・地下出版のベストセラー酒クズ小説『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』を読む

 

 

本書は1970年に執筆された。1970年のソ連。とてもじゃないがこれを共産党が許すとは思えない。だからこその地下出版。地下出版のベストセラー。そして、世界に広まった酒クズ小説の傑作。

 

冒頭からこんな具合だ。

 クレムリン、クレムリン、と誰もが言う。クレムリンのことはあらゆる人から話には聞くが、自分で実際に見たためしは一度もない。もう何度となく、一千回も酔払って、それとも二日酔で、モスクワを北から南へ、西から東へ、端から端まで突っ切ってみたり、ただ無茶苦茶に歩き回ったりしたのに、クレムリンはただの一度も見たことはない。

 昨日もついに見られなかった。ひと晩じゅうあの辺りをほっつき歩いて、それほど酔っていたわけでもないのだが、サヴョロヴォ駅を降りるとすぐに、手初めにズブロフカを一杯ひっかけた。朝の眠気醒ましにはこれが一番いいってことは、ちゃんと自分の経験でわかっていることなのだ。

 そう、ズブロフカを一杯。それからカリャエフスカヤ通りでもう一杯。ただし今度はズブロフカじゃなしに、コリアンダーだ。ある知り合いに言わせると、コリアンダー・ウォトカは、ひとに非人道的な作用を及ぼすそうあ。つまり、身体のあらゆる部分を元気にするくせに、心を萎えさせる。それが、おれの場合は、なぜか効果が逆なのだ。つまり、心は最高に元気になったくせに、身体が萎えてしまった。だが、これも非人道的作用には違いない。だから、そのままカリャエフスカヤ通りで、おれはジグリ・ビールをジョッキ二杯と、アルブ・ド・デセール・ポート・ワインをラッパ飲みした。

 もちろん、諸君は訊ねるだろう――ヴェーニチカよ、あとは何を飲んだんだい? ところが、何を飲んだのか、自分でもよくわからない。覚えているのは、チェーホフ通りで狩人印のウォトカを二杯飲んだことだけだ。だけど、サードヴォエ環状道路ってやつは、何も飲まずにゃ渡れないんじゃないか? そりゃ、だめだ。てことは、まだ他にも何か飲んだってことなんだ。

 

ロシア=ウォトカと思いきや、ビールもポートワインも飲む。シェリーも、謎の毒カクテルも飲む。とにかく飲む。飲みながら、主人公はモスクワからペトゥシキという街へ電車に乗る。乗っても飲む。ひたすら飲む。飲みながら、ペトゥシキで待っている愛しい女とかわいい幼な子に会うことだけを思う。思いながらも飲んで、飲みつづけ、現実も回顧も妄想もまぜこぜになっていく。

 

主人公はアル中で、社会的階層も低いが、インテリだ。弱いやつだ。

 

ああ、もし世界中が、世界中の人が皆、今のおれみたいに静かでおどおどしていて、何ひとつ――自分自身にも、この空の下、自分の占める場所の重大さにも確信をもてない謙虚な態度だったら、どんなにこの世は住みやすく、愉しいことだろう! 熱狂者とか、偉業功績の類いとか、とり憑かれたように何かに打ち込むとか――そんなものはどれもこれも無くたって結構、いまの世の中の人間に必要なのは、ただひたすらに全面的な弱気だけだ。偉業功績を成し遂げるために年がら年じゅう力を発揮しないでもいい場所を、もし一つでも見せてくれたら、おれはこの世に永久に生きることさえ厭わない。<全面的な弱気>――これぞあらゆる不幸からの救済策、万能薬、完全無欠のエッセンス!

 

こういう具合だ。

 

 そりゃ無論、あいつらは皆、おれのことを駄目な奴だと思っているに違いない。二日酔で朝、目が覚めるたびに、おれだってそう思う。だがなあ、まだ迎え酒をしていない男の意見なんぞ、信用しちゃいけねえ! その代り夜になりゃ、おれには底知れぬ深遠なる思想が満ち満ちてくるのさ――うん、そりゃ、それまでに出来上がっていればの話だが――夜はいつだっておれの中は果てしない深淵さ!

 しかし――まあいいか、おれが駄目な奴でも、まあいいや。おれはそもそも気がついていたんだが、朝、気分が悪くて、夜になると構想夢想のたぐいや力が満ち満ちてくるなんてのは、大いに駄目な奴に決まってる。朝はまずくて、夜はいいってのは、駄目人間のたしかな特徴だ。これが逆に、朝は元気一杯、全身希望に満ち溢れているくせに、夕方までに疲労困憊しちまうのは、どうかって言えば、こりゃもう人間の屑、功利一辺倒、極めつけの木偶の坊さ。そんな奴は、あんたたちは、どう思うか知らないが、おれは、ごめんだね、そんなのと付き合うのは。

 

 

いいことをいう。おれは精神疾患もあって朝がだめだ。べつに二日酔でもないのに起き上がれないくらいだめだ。だが、元をたどれば子供のころから夜型だった。中学高校のころなど、学校から帰って夕方に寝て、深夜に起きて早朝まで夜に生きたものだった。今でも三連休くらいあれば、あっという間に昼夜が逆転する。いや、逆転ってなんだ。おれも夜に力が出るタイプなんだよ。というか、このあたり、当時のソ連社会のあり方への批判みたいなところもあるかもしらんが、いや、普遍的よ。

 

 おれは、自分がいまや真理の何たるかがわかったとか、真理のすぐ手前まで近づいたとか、そんなことを言うつもりは、さらさらない。ただ、真理の姿をじっくり見るのにいちばん都合の良い距離まで近づいたんだ。

 それでおれは、じっと見詰めていたら、見えた。だから悲痛な想いなんだ。あんたたちの中には誰も、こんな苦いどろどろしたものを自分の中に抱え込んだことがある奴なんていやしない。このどろどろが何でできているか、説明するのは難しい。どうせあんた達にはわかりっこないんだから。まあ、とにかく、そのどろどろの中で、いちばん多いのは<悲痛>と<恐怖>だ。そういうことにしておこう。<悲痛>と<恐怖>がいちばん多くて、あとは沈黙だ。毎日、朝になると<おれの素晴らしい心>はこのエキスを分泌して、夜までその中に浸かっている。他の人なら、たとえば誰かが突然死んだときに、こんなふうになるんだろうが、おれときたら、これがずっと続いているんだ!――せめてこれがわかってくれたらなあ!

 これだから、おれは退屈な男にならざるを得ないし、クバンスカヤ・ウォトカを飲まずにはいられないんだ。その資格は充分あるのさ。おれは<世界苦>てもんが、むかしの文学者が流行らせたフィクションなんかじゃないってことを知っている。あんた達よりずっとよく知っているんだ。なぜかと言えば、おれ自身、それを心に宿していて、その何たるかを知っているからだ。

 

 

おれはクバンスカヤ・ウォトカを飲んだことはないが、もうこれ、おれ自身の言葉でもいいんじゃねえかと思えてくる。おれの心は悲痛と恐怖のなかにあって、飲むしかねえんだ。あんたたちはわかるだろうか。わからん人はわからんだろう。ただ、おれはおれのような人間が決しておれひとりではないということもわかっている。世の中は、おれたちと、あんたたちでできている。とはいえ、おれはおれたちの代表面するつもりもないし、なにかを代弁するつもりもない。酔って悲痛と恐怖から逃げるだけだ。それを隠そうとも思わない。

 

ウスペンスキーだの、ポミャロフスキーだのといった雑階級の、人民主義(ナロードニキ)の作家たちは、杯なしじゃ一行だって書けなかった! おれは読んだから知っているんだ! 連中は自棄になって無茶苦茶に飲んだ。ロシアの誠実な人間は皆そうだ。なぜ飲んだのか? 絶望のあまり飲んだのさ! 誠実だから、人民(ナロード)の運命の重荷を軽減してやるだけの力がないことを自分で身に沁みて知っているからだ! ナロードは、貧困と無学にまみれて喘いでいた。ドミートリー・ピーサレフを読んでみたまえ。こんなふうに書かれている――ナロードには牛肉は買えないが、ウォトカは牛肉より安い。だからロシアの百姓は飲むのだ。その貧困さゆえに飲むのだ! 百姓には、本は買えない。なぜなら市場には、ゴーゴリもベリンスキーもないからだ。あるのはウォトカだけだからだ! 官営専売店のだろうが、それ以外ののだろうが、計り売りだろうが、瓶売りだろうが……。ロシアの百姓が酒を飲むのは、その無知ゆえだ!

 これで自棄を起こさずにいられるか。百姓について書かずにいられるか。彼らを救わずにいられるか、絶望のあまり飲まずにいられるか……。だから社会民主党員は、書いては飲み、飲んでは書いたのだが、百姓は読まずに飲み、飲むだけで読まなかった。そこでウスペンスキーは、やおら立ち上がって首吊り自殺をし、ポミャロフスキーは居酒屋の腰掛けの下に寝転んだ挙げ句にくたばった。そしてガルシンは、浴びるほど飲んでから、階段の手摺りを乗り越えて身投げする羽目になったんだ。

 

ウォトカをストロングゼロ(今はそんなにはやっていないか?)に、百姓を低所得者層にして、現代日本に置き換えてみたらどうだ。ストロングゼロは牛肉より安いし、本よりも安い。そして、低所得者層のために書く人がいるだろうか。やけになってくれる書き手がいるだろうか。おれには思いつかない。おれは飲んで、なおかつ少しは読む人間だが、こんな古いソ連の作家エロフェーエフが書いたこんな本に身近な誠実さを感じているくらいだ。飲酒はただ下賤で無知な人間の依存症と蔑まれ、ほかに救いのないおれのような低所得者層、社会の下流、生きる価値のない人間はただ飲むしかない。抗不安剤も、抗精神病薬も、酒も飲む。

 

酒を飲んだら、どうなるか。

 

「ネズの実入りのウォトカを飲めよ、ワージャ」

 チーホノフは、ネズの実入りのウォトカを飲んで、喉を鳴らすと、落ち込んでしまった。

「どうだ、機は熟したか?」

「ちょっと待て、いま熟すところだ……」

「いつ出動するんだ、明日か?」

「そんなこと、知るか! ちょっと酒が入ると、今日でもやってやれ、昨日だって早すぎやしなかったって気になる。ところが酔いが醒めかけると、駄目だ、昨日じゃ早すぎた、明後日でも遅くないって気がするんだ」

 

 

わかるか? わからんか? わかるよな? でもな、酒が入ると「やってやれ」になるけど、いい具合になってくると、「今日はなんにもできんな、明日にするか」となるのだ。それは「いい具合」ではなく、醒めかけているということか。飲みはじめのよさでなにかやるべきなのか。まあ、それでやれていたら酒など飲まんし、飲んだらやれんのだ。むずかしい。

 

そしていつか、ぼくが死んだら――どうせぼくはもうじき死ぬんだ、それはわかっている――この世を理解していても、結局この世を受け入れることも叶わず、近くからも遠くからも、外からも内からも、この世のことはよく知りぬいてはいても、それでも受け入れることも叶わぬままに、死んだとしたら、そのとき神はぼくに「おまえは生まれてよかったか、よくなかったか?」と訊ねるだろう。するとぼくは目を伏せたまま何も言えないことだろう。この沈黙は、何日も続いた二日酔いの終結を経験した者なら、誰でも知っているはずだ。というのも、人生とは、束の間の魂の酩酊、魂の混濁ではなかろうか? おれたちは皆、酔っているようなものだ。ただ人によって、その度合いが違う。人より多く飲んだ奴もいれば、少なく飲んだ奴もいる。それに酔い方も違う。面と向かって、この世を嘲笑う奴もいれば、この世の胸で泣く奴もいる。もう吐くものを吐いてしまって、すっきりしている奴もいれば、今吐き気が始まったばかりの奴もいる。おれはどうか? おれは散々飲んできたのに、何の効き目もなかった。おれは一度も腹の底から思い切り笑ったこともなければ、吐いたこともない。おれは、この世でこれだけいろんなものを味わい尽くして、勘定も辻褄も合わなくなってしまったくらいなのに、この世の誰よりも醒めている。おれにはあまり効き目が出ないのだ……。「なぜおまえは、黙っているのか」と、全身青い稲妻に包まれた神はおれに訊ねるだろう。おれは何と答えたらいいか? やはり、ただひたすら、黙するのみだ……。

 

「訳者あとがき」の翻訳者による解説によれば、著者のエロフェーエフが酒を飲むときは「勤行」のようであったと長年の友人が語っていたという。おれ自身の飲酒が「勤行」とは思えないが、おれも「腹の底から思い切り笑ったこともなければ、吐いたこともない」のだ。この世の悲痛から逃げるために飲み、飲んでいるのに酔いの世界に完全に酔うこともなく、どこか醒めている。この世は苦しく、逃げ場がない。

 

本書にはさまざまな比喩や暗示が含まれていて、それは聖書のイエスをなぞらえたものだという読み方もあるらしい。しかし、おれにとってはある一人の酒飲みの悲痛を描いたもの、告白したものであって、マジック・リアリズムなどではない、リアルを感じた。リアルに酒を飲んだ人間しか語れないこと。酒を飲んでも究極的には酔えない人間しか語れないこと。それがこの本にはあった。おれはそう思う。あんたが読んでどう思うかは知らない。しかし、あんたが酒飲みを、アルコール依存症を自覚しているなら、なにか感じ入るところがあると信じている。酒を嫌う人間が読んで、なにか感じ入るところがあるかは想像もつかない。

 

以上。

 

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……この記事は「チルグリーン」とともに提供しました。