その顔は誰も知らない〜『殺人の追憶』を観る

 おれがまだ小さなころ……小学校の低学年くらいだったろうか、部屋の観葉植物の枝がおれているのが見つかって、父に問われたのだ、おれか弟、折ったのは誰だ? と。おれには身に覚えがなかった。まったくなかった。そしておれは、無実の罪をかぶって叱られるほど弟思いの兄ではなかった。おれは「おれがやったのではないのだから、弟が犯人に決まっている」とまくしたてた。それがおれの真実だし、正義だった。ついには抗弁していた弟が泣き出してしまって、沙汰止みとなった。あとから思えば、母が折ったのかもしれないし、父が知らない間に折ったのかもしれない。いろいろな可能性はあった。ただ、おれはそのとき、「おれがやったのではないから、弟が犯人に違いない」という思い以外なかった。それはあまりにも確固としたものだった。弟が犯人に違いない。真相は藪の中。
 映画『殺人の追憶』を観ていて思い出したのは、そんな些細なエピソードだった。『殺人の追憶』の元となった事件は些細では済まない。連続強姦殺人事件だ。

 田舎の刑事たちは、目星をつけた容疑者を脅し、殴り、逆さ吊りにし、自白を得ようとする。自白偏重主義、日本の警察と変わらないじゃないか。いや、逆さ吊りはないか。いずれにせよ、そいつが犯人だという、連続強姦殺人者であるという強い思い込みでそうしている。本当は犯人ではないと思ってやっているようには見えない。これに、都会であるソウルから来た刑事は反発する。頭で捜査しようとする。自白の強制をやめさせようともする。が、結局はその頭から導き出された容疑者に対して、先の刑事たちと同じような行動をとる……。
 実在の事件をもとにしている。犯人は誰だったのか? 何だったのか? ラストは見事なものだった。序盤、田舎刑事の一人が「おれには人を見る目がある」と言うのに対し、上司が「あそこにいる二人の男は強姦犯と被害者の兄だ。どちらがどちらかわかるか?」と問う。その答えは示されない。刑事には確信がある。しかし、顔では犯人はわからない。思い込みは正しいとは限らない。現に誤る。
 今日現在、一つの事件が日本を賑わせている。

 パソコン遠隔操作事件。犯行そのものと同じか、それ以上に警察、検察の手法が問われている。おそらく、警察の中の誰かは、あのときのおれのように、『殺人の追憶』の刑事たちのように、強い思い込みがある。真犯人がだれなのか、おれにはわからない。ただ、その思い込みが許されるようであってはならない。弟が泣く。国家権力の手となれば、泣くだけじゃ済まない。いかに犯行を許せなくとも、犯人を許せなくとも、われに正義ありと思おうとも、人間を逆さ吊りにしちゃいけない。さすがに逆さ吊りにはしないだろうが、日本の司法制度にはなにかしら欠陥がある。たとえこの事件の真犯人がだれであろうと、そういう国に生きているということを意識する必要はあるかもしれない。警察から人殺しの顔をしていると思われないように、変態の顔をしていると思われないように。……それだけでいいのか? いや、せいぜいそんなものだろう。それにおれは弟を冤罪に陥れた罪があるかもしれない。いずれ報いを受けないと誰が言えようか? そしてあなたはおれに石を投げられるだろうか?