宇多田ヒカルが興味深いこと言ってたことについて

乳児期に行われる視線と触知と聴覚(音声)の最初の編成という考え方のなかで重要なのは、この編成がどんな歪みを、どこの近くの部位に産み出しているかということと、どんなものが主たる病的な編成であるかというふたつのことにあるといえよう。

吉本隆明『心的現象論本論』p.389「了解論 了解の変容(8)」

NHKの「SONGS」という番組に宇多田ヒカルが出ていた。出ていた、というか、宇多田ヒカルがかえってきた! という感じ。先日のミュージックステーションでも見たけれど。それで、糸井重里と対談なんかしていた。

そのなかで、宇多田ヒカルがおもしろいことを言っていた。精確には書き起こせないが、だいたい次のようなことだ。

自分という存在、自分の心というものの原初、源には、自分の物心というものがつくまえの乳幼児の段階があり、それが今の自らをも構成している はずである。ところが、その自分の原初というものを、自分はまったく記憶していない。それは闇の中にある。

しかし、自分が母親になってみて、物心つくまえの自分の子供が日々成長していくのを見ていると、かつてその段階にあった自分というものを再発見し、腑に落ちるような思いをする、と。

これはおもしろいな、と思った。同時に、おれには子供がいないしできる予定もないので永遠に体験できないことであろうとも思った。あるいは、これは母親にしかない感覚という可能性もある、とも思った。いずれにせよ、自分の根源であるところの幼少期、自分を保護するものによって生かされていた、記憶にない時代のことを、自分が保護者になり産み育てることで再認識、再体験、追認するというのだ。

むろん、これは宇多田ヒカル個人の感じ方であって、「そんなことないよ」という母親もいるだろう。そもそも、乳幼児期の、物心つくまえの体験が、その後の人格形成にどれだけ影響を及ぼすものだろうか、という疑念もないわけじゃあない。それでも、宇多田ヒカルという一個の母親が、自分の子供に自分の乳幼児であったころを見た、というのは興味深く思えた。

興味深く思えた。それが結論だ。おれはべつに「三歳までの子供への接し方でその後の人生が決まる」とか、「個体発生が系統発生を繰り返し、また一個の人間の成長は人類の歴史の諸段階をなぞるものである」とか、そんなことを言いたいわけでもないし、それを信じているわけでもない。ただ、出産と同時に別個体になる人間というものの親子の間に、宇多田ヒカルがしたような経験、腑に落ちるような感覚があるとすれば、人間の連続性、人類の連続性というものに、なにかしら関係している可能性があるのではないか、そう思ったまでである。

 

 

Fantôme

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心的現象論本論

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 ……読むのを諦めた。