人生は長勢甚遠である

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061121k0000e040046000c.html

「人道、人権だと言えば、何でも法律を破っていいということにはならない」

 人道、人権、そしてもう一つつけくわえるならば人情、だろうか。パキスタンから体一つで来日した中古車貿易商、夕日に向かって唱えるコーランラマダン明けたら電話をくれと、一言残してそれっきり、紳士なイスラム、シャリマール。……とは、クレイジーケンバンドの「シャリマール」という曲(id:goldhead:20060725#p3)であって、イラン人のアミネ・カリルさんとは関係ない。だが、ちょっと待ってほしい。人が法律の僕なのか、法律が人の僕なのか。これを取り違えてはならない。人道のために法があるのか、法のために人道があるのか。これはむずかしい話だ。
 で、人情の要素を完全に欠落した私は、この四字熟語のような名前の法相の言うことに賛同する。なし崩し的に既得権益を認めるのはよろしくない。このイラン人家族の善良を疑いはしないが、善良でない不法残留外国人がいないと誰が言えようか。一度既成事実化してしまえば、あとはお役所仕事を欺くのは簡単だろうし、一定期間逃げ切って、妻子あればオーケーというのは、もう無法状態でしょう。それに、まずなにより先に「日本は移民を受け入れるのか」という大前提が議論されなくちゃあいかんでしょう。善良な移民者が善良なインディジェナスと幸福に暮らしていけるとは限らない。いいこともあれば悪いこともある。そこを納得しないでことがはじまれば、お互いに不幸になる。
 いや、もう、はじまっているのか? なぜこの一家の子が大学進学などできるのか。日本で教育を受けたからだ。学校に通っていたのか? インターナショナルスクール? もしも公立校だとしたら、それはオッケーなのか? わからない。
 欠落したはずの人情をちょっと借りてくれば、やはりかわいそうな面も多い。たとえば、子に親は選べない。これは不可抗力だ。それに、たとえば通学などが認められたとすれば、日本社会や日本の法が自分たちを認めているのだと考えてもしょうがない。ぶっちゃけ、ろくでもない日本人、俺のようなワーキングプア下流社会のゴミカスよりも、向学心、向上心に燃える彼らの方が有用・有益の存在だろう。だが、法は人の僕である。ろくでもない人間の僕でもある。人生の道のりは長勢甚遠、ひとたびイランに帰ろうとも、日本の支援団体はきちんと支援を続けてくれることだろうし、またやり直せばいいのだ。サニー、スタンザ、ファミリア、スタンザ、ホーミー、チェイサー、遠い異国で、第二の人生送る、中古車たちよ。そして、法は人情の僕でもある。それがもしもできたのなら、そのあとに来てくれればいい。そうでなければ、まあ、そういうことで。