歯科と自我、あるいは不老町交差点で見た幻

goldhead2008-05-26

 不老町交差点、ハンバーガーのチェーン店を背に海の方を見る、蜃気楼のようにゆらいで見える。足を一歩も前に進める気がしない。行き先が歯医者だというのに、足取り軽くなる男がいるだろうか。いいや、いつのときも俺は、俺は気がふさいでいる。いつもその先には月曜日があって、宿題の提出があって、新しい人生があった。いつも未来の不安、やらなければならないことへ目をつぶることへの罪悪感。いつも苛まれていた俺がいる。……俺がいるって、どこにいるのだ。この俺は、今、ここの、この一瞬の俺しかいないのだ。頼朝公のしゃれこうべ、俺の過去の俺は今どこにいるか。
 「治療はもう今日で終わりですから」
「はひ……」(はい。いや、しかし、奥歯をかみしめたまま返事するのはむずかしいですけれど)
 過去の俺の積み重ね、記憶の、経験の積み重ねが俺だとして、そんなものは、今この刹那の俺ではない。所詮は都合のいいように身につける付属物、衣装に過ぎないのではないか。幼い頃、歯医者でハンニバル博士のようにされたこと。歯医者への恐怖。歯医者を恐怖する俺という俺をつくるためのペルソナ。生まれついたとき俺は歯医者を怖がって泣いていたわけではないのに。不死ではなく不生である。盤珪禅師はそう言っていたか?
 「虫歯は内容だけど、ほかに問題のあるところはありませんか?」
「むしはでなひのなら……」(この質問は二度目ですね先生、いくら私が歯医者におびえているのが丸見えだとしても、問題があれば言いますよ。手おくれになって、もっと痛いのはもっと嫌です)
 未来の不安はもっと不在だ。未来の俺がどうして今ここにあり得るだろうか。そうだ、過去の記憶も未来への不安も、今ここの自己が選んで身につけているものにすぎない。今の俺が今の俺を演出するのに、自我を維持するのに、過去や未来といった考え事の脚色が必要なだけにすぎない。本来無一物。過去や未来の俺は今ここの俺であって、同時に今ここの俺は過去や未来の俺である。俺そのものである。過去においていつもブルーマンデーであった今の俺であり、未来において路頭に迷う今の俺である。ただ過ぎゆく今一瞬のこの刹那刹那の俺があらゆる俺である。
 俺は診察台の上で、鮮度を保つために針を打たれて仮死状態になった魚のようだ。汗が止まらない。お前は今日、虫歯を削られるわけでもなければ、注射を打たれるわけでもない。できあがった銀歯を填めるだけではないか。
 自分が自分を構成する自分であると信じる自分が自分が自分を構成するための自分として自分が組み上げただけの自分であることに気づけば、誰かが「光あれ」と言った今から56億7千万年後の今まで融通無礙の出入り自由。遠く離れた星々も今ここにあって、同時に俺は血肉と糞袋の中にあって色に委ねることもできるだろう。
 不老町交差点、ハンバーガーのチェーン店を背に海の方を見る、蜃気楼のようにゆらいで見える。
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