1
私は世紀の天体ショーと称される、皆既日食を見んがために、鹿児島はトカラ列島、悪石島に上陸した。上陸などというとものものしいが、とくに潜伏して秘密裡に乗りこむといったことはなく、大人しく大枚をはたいてツアーに参加したのである。ただ、上陸のさいには、密航者や不穏分子を摘発しようと、船が島に着いてから三時間も待たされた。昨日は、一見、難民キャンプのごとき学校の校庭のテント村で過ごした。夜には、島民による歓迎祭のようなものも行われた。地元の習俗にのっとった祭りでは、見たことのない歌や踊りを満喫できた。村の娘たちはボゼという悪霊をモチーフにした、簡素な仮面をしており、誰も顔を見せない。そのうち、酔っぱらったツアー客の中年男性が、一人の少女の仮面に手を掛けて、素顔を見ようとした。その男、島民に両脇をかかえられ、どこかへ連れ去られてしまった。その少女の姿も見えなくなった。案外、どこかでよろしくやっているのかもしれない。
この島を訪れた人々は、日本人ばかりではなかった。白人のバックパッカーや、アラブ系、アジア系の人々も多い。家族という単位より、もう少しおおきな集団もいた。もちろん、家族連れもいれば、カップルもたくさんいた。私は単身だったのだが、船でたまたま隣り合ったイエズス会の宣教師、ポルトガルから来たという男と行動をともにしていた。とはいえ、私はポルトガルの言葉もわからないし、彼も日本語をいっさい解さない。ただ、彼がぶつぶつつぶやくのに、私がわかったようなふりをして、相づちを打つばかりだ。
宗教といえば、イスラームの信者や、ヒンズーの信者も少なくない。宴では、食をめぐる禁忌について、島民といざこざがあったようだった。無神論者の私はといえば、牛とも豚とも鶏ともわからぬ、なにか食べたことのない肉を焼いたものが美味しかった。なにかまったりとして味わい深く、おかわりを所望したが、量はそれほどないというようなことを島民は言った。
夜は、遅くまで酒盛りをする者、神か何かに祈りを捧げて早々と眠る者、浜辺でおそくまで語り合う恋人たちなどさまざまであった。私はとくにすることもなく、宣教師から聖書らしき書物を借りて開いてみても、何がかいてあるかとんとわからず、本土の二倍はある大きな蚊の音に悩まされながらも、早々に寝てしまった。
2
今朝は、早朝から晴れていた。雲一つ見えぬ。しかし、これから日食の闇が覆うという予感からか、どこか沈んでいるような気配であった。人々もどことなく落ちつかず、さりとて騒ぐわけでもなく、もくもくと日食の方向を計ったり、カメラやなにかのセッティングにいそしんでいた。私と宣教師は、校庭から少し歩いた浜辺に陣取ることにした。よくわからないが、大勢の人がそこの場所取りをしており、私は多数決を採用したのである。私は空いたスペースにござを引き、体育座りをした。宣教師も同じように座った。宣教師も体育をするのだろうか、少し疑問に思ったが、それを問うべき言葉を私は知らなかった。宣教師は宣教師らしい黒い衣を身にまとっており、いかにも暑そうだが、汗一つかかない。考えてみれば、汗かきの私も汗がでない。この南の島、それほど暑くないらしい。
ふと、体育座りの足先を見ると、靴に黄土色の何かがこびり付いていた。私は思わず顔をしかめた。これは誰かの嘔吐物に違いない。ぎゅうぎゅうのテント村で、今朝方ふんでしまったのだろう。砂浜にこすり付けてみるが、砂が付着するばかりで、余計に不快なだけだった。空を見上げると、太陽が燦々と輝いていた。「燦々」の太陽というのはこういうものかと、実感があとから追いついてきた。
3
いよいよ、日蝕の時間が近づいてきた。島内放送のスピーカーから、「まもなく、日蝕の時間です。みなさま、押し合って、怪我などしないようにご注意なさいませ」と、どことなくイントネーションのおかしな注意が聞こえた。太陽はまだ一片も欠けたるところなく輝いていた。ただ、心のうちにどことなくひんやりとした、心配のような風が吹くように思った。ある者は、立ち上がり、ある者は、敷物に頭をつけて何やら祈りを捧げた。また、ある集団は太鼓だか木魚だかを叩きながら、何やら声明のような念仏を唱えた。騒然と、しはじめた。私の隣の宣教師も、ロザリオを手繰りながら、「Salve regina, mater misericordiae...vita, dulcedo, et spes nostra, salve...」などと呟いている。意味がわからない。
私はただ、足の裏にこびり付いたゲロの気配が不快で不快で、何かに足が侵されているような気になって、いよいよ日蝕だというのに目を閉じたり、耳を塞いだりして気を紛らわせていた。
4
そして、日蝕がはじまった。日食メガネを持つ手に力が入った。のっぺりとした、黒い円が、徐々に太陽を侵しはじめた。奇跡でも、偶然でもなく、あくまで天体の運行が、かようなものである、というように、日は翳っていった。あくまで、これは自然の運行なのだと、やけに理性的になった。むしろ、耳に聞こえるものが、圧倒的に異様であった。祈りの声、声明、太鼓、笛、また、意味をなさないであろう奇声、絶叫、この小さな島全体が宇宙に向かって咆哮しているかのような幻覚におそわれた。私もたまらず、「あー、あー」と声を出してみた。私の声など大きな音の波にさらわれて、形をなすことはなかった。
5
ついに日のすべては覆われた。細いリングが天上にあらわれた。深く、深く、暗い紺色の空に、うっすらと星々が見え始めた。先ほどまでの熱狂が、一瞬でおちついた。空気も、なにも、運動をやめてしまったかのようだった。昼でもなく夜でもなく、暑くもなく寒くもなく、ここが地球であるかどうかもさだかではなかった。そのとき、私の隣にいた宣教師が「Venha……!」と声を絞り出し、日蝕のリングより下の方を指さした。その声に気づいたのは私だけだった。そして、その指先に見えたものに気づいたのも、私と彼だけだったか。
水平線の向こう、そこには、漆黒の切り絵が列をなしてた。どうみても空に貼りついた切り絵のようだった。切り絵が、列をなし、上下に揺れながら進んで行った。ある切り絵は馬にまたがった騎士のようであり、手に弓矢を持っていた。ある切り絵はピエロのような帽子をかぶり、右手に大きな剣を持っていた。ある切り絵は手に秤を持ち、ある切り絵は犬を引き連れていた。ある切り絵はラッパを吹いており、ある切り絵は背中に翼が生えていた。ある切り絵は巨大な魚のようであり、ある切り絵は複頭の獣だった。薄暗い空を背景に、そんな切り絵が行列をなしていた。水平線であの大きさに見える切り絵は、どれだけ巨大なのか、私には想像もできなかった。
6
気づくと、宣教師は死人のように青ざめた顔をしていた。異様な量の汗をかいていた。「e apareceu um cavalo baio,o,o,o...」とつぶやくと、操り糸が切れたように砂浜に崩れ落ちた。私は水平線上をゆっくりと右から左へ流れていく切り絵の列から目を放せなかった。どこかものすごい遠くから、ぷぁーんというラッパのような響きが聞こえてくるようだった。その時である、若い男の子の声が聞こえた。
「おーい! 森の中でセックスしてるカップルがいるぞ!」
私は、急速に現実に引き戻されるようだった。なるほど、皆既日蝕のもとでまぐわうカップルがいても不思議ではない。森の中、翳っていく空、汗ばんだ肌の密着……。私は、下半身にずんと重い何かを感じながら、森に向かって走る男子たちのあとを追った。私には、日蝕も切り絵もなにもどうでもよかった。私の胸はセックスにかきみだされた。誰かが、セックスをしている。この瞬間に、セックスをしている。靴にこびりついたゲロを、できるだけ引きはがすように、足をひきずりひきずり、森へ、誰かのセックスの方へ向かっていった……。
<完>