終わらない俺の中の1999.1.4〜 『子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争』を読んで〜

◆承前

流血の魔術 最強の演技 (講談社+α文庫)
 これに書いたように、俺はプロレスをほとんど知らないのに、いろいろ書く。プロレスファンにとっては不愉快な話だと、はじめに断っておく。

1.4

 1.4東京ドーム、橋本真也小川直也。俺がプロレスというものに出会った瞬間だった。しかし、俺にとってのプロレスは、そこで起きたことと、その後の橋本対小川をめぐるものになってしまったがために、俺はプロレスファンにはなれなかった。そして、ミーハーな格闘技のファンになってが、その熱も冷めた。今思うに、いや、今でも思うが、あれはなんだったんだろう?

 一つの答えになるかもしれない本、『子殺し』。これをこのたび読んだ。著者は週刊ゴングの編集長だった金沢克彦。とはいえ、俺はプロレス雑誌のことを知らない。ゴングとファイトのどちらが競馬ブックで、どちらがギャロップかもわからない。とはいえ、あれだけ熱中して読んだミスター高橋本のミスター高橋も、知るのはその肩書きのみだった。ともかく、1999年にちょうどプロレス週刊誌の編集長になった人間の書いたものである。ただそれだけの知識。はっきりいって、“GK”金沢がどんな人かはわからんのである。この本の中になんども出てきて「ターザン山本のようになってしまう」というような語られ方をするターザン山本なら、競馬読本がらみで知らぬわけではないが、ターザン山本がプロレス界においてどんな役割を果たしたのかもわからんのだ。……とはいえ、おおよそ「Wikipediaで読んだ」という前提はあるのだが。

 そのWikipediaの小川直也の項にある記述にのっとれば、あの1.4はこのように総括される。

この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではなく、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされる

 あったとされる、これである。いまだに「プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされる」ことを、いきなり「プロレス」として見てしまった衝撃、あるいはトラウマ、なんでもいいが、俺にとっては、なんてものをはじめに見てしまったのか、という意識がある。むろん、生まれてからその時までプロレス中継を見たことがないわけではない。ただ、ぼんやり夕方に見ていたくらい。そして、人並みに「プロレスって演技だろ?」と思うようになっていたという前提があった。あったがゆえに、衝撃だった。
 そうだ、「プロレスというのは、最初に悪者が優勢になって、最後はいい者が逆転勝利をするのである」という、単純なテーゼを信じていたところがある。それなどは、子供の時分に父親から聞かされた話であったと思う。父はインテリ風味の人間であったので、その上で「プロレスというのは古代人が自らの身体に装飾をほどこし、その強さをパフォーマンスしたようなものの延長であり、勝ち負けのものではないのである」というようなことを付け加えていたものだが。しかし、ともかくとして、その話を覆すような試合を、それ以後見ることはなかったのだ。ミスター高橋本の感想にも書いたが、どちらかといえばプロレスを冷笑するようなスタンスになっていったのだ。
 それゆえに、1.4で小川が橋本にしたことというのものは、大きな大きな衝撃だった。「これが筋書き通りなのか」と。今となっては「ガチンコの乱闘」などと語られるが、リアルタイムではわかりもしない。ともかく、なんだかわからない。巨大なクエスチョンマーク。そして、これが筋書きならすごいし、本当にガチンコ勝負でもすごいし、ともかくすごい、と。

「特別な試合」

 ……本当にガチンコ勝負でも。
 そうだ、俺はプロレスというものが真剣勝負ではないと思いつつも、全部が全部そうではない、とも思っていた。具体的な事例を知るわけではないが、スポーツ新聞で見かけるG1とかの大会や、あるいはチャンピオンベルトについては、どっかしら真剣勝負的なものをやっているのではないか、と。なんというのだろう、そうでなければ、「賞金一千万」だの、「悲願のベルト」だの、やっていられないのではないか、と。一試合、一試合はともかく、そこまで勝ち負けが決まっていては、なんというのだろうか、成り立たないような、そんな感じだ。そのときの意識を有り体に言ってしまえば、大の大人が、そこまでやってるフリはできねえだろう、と。だけど、その試合だけ急にアマレスみたいになるなんてことは恥ずかしいだろうから、プロレス的な文脈の上で(技は受けきる、とか、ロープに振られたら、とか、あるいは何分までとか)、最後に実力勝負があるんだろう、と。不確定要素があるんだろう、と。そんな「特別な試合」があるのだろう、と。
 そういう意味で、プロレスを見る目というのは、「これは筋書きがあるのだろうか、ないのだろうか」というあたりであったともいえる。ただし、本当の勝負はめったに無いことだし、騙されてはいけない、と。
 ……まあ、そういう意味では、プロレスファンでもないのに、ミスター高橋本にかなりショックをうけた一人ともいえる。「それすら、なの」と。

『子殺し』

 とはいえ、あの1.4の段階ではミスター高橋本もない。俺はともかく虚実のクエスチョンマークに叩き込まれた。叩き込まれて、その後よく新日本プロレスを見たと思う。『子殺し』を読んでいて、小川対橋本以外の、たとえば長州力大仁田厚、あるいは大仁田劇場と呼ばれるアナウンサーとの掛け合い、そんなものにも見覚えがある。もちろん、興味が移っていった総合格闘技の面から、永田さんや石澤常光の試合も全部見ているはずだ。猪木と新日本プロレスが10年戦争をしているとき、俺の興味はけっこうそこにあったのだった。
 では、『子殺し』で語られるあの1.4の真相とはなんだったのか。

 ……と、その前に『子殺し』という本をあらためて紹介する。Amazonの紹介文を引用する。

元「週刊ゴング」編集長が世に放つ衝撃作。98年以降のマット界の暗黒はなぜ起きたのか。専門誌編集長として業界のすべてを知る立場にあった著者だけが書ける、大仁田参戦、小川vs橋本、総合格闘技の「プロレス喰い」、幻の「ヒクソンvs長州」。団体の迷走と読者の狭間に立たされた苦悩を軸に、プロレスの「本質」を描き切る。新日本プロレス史に残る「暗黒時代」の真実といまはなき「週刊ゴング」への墓碑銘。

 これである。しかし、衝撃作といっても、暴露本ではない。そういう印象がある。まずなにより、ミスター高橋本と違うのは、ケツ決めについては触れていないのである。とはいえ、そんなものはない、というわけでもないのである。この距離感。それがあることは、すでに自明であって、ファンもそのつもりでいるところに、あえてそこを暴露はしないというスタンス。とはいえ、「まえがき」はそれに関する遠まわしなスタンスの表明から始まる。
 ここのところが、なんというか絶妙だ。そしてまた、全編にわたって、「そのとき私はこれこれこういう話をレスラー/関係者から聞いたが、全部書ける話ではないので、当時はこれこれこのように雑誌に書いた」という話が出てくる。それが語るのは、この本自体もそのような構図が成り立つということ。すなわち、これが「真相」だ、というわけではなく、あの当時、あの立場にいた筆者が見聞きしたことについて、今筆者がいるスタンスから書いた、ということ。いや、どんな回想録でもそうなのかもしれないし、「真実」など書きようがないのかもしれないが、ともかくそのあたりを意識させる本なのだ。
 それでも、その上で語られるプロレスが、いや、プロレスラーの言葉がめっぽう面白い。面白いし、悲しいし、なんとも魅力的だ。プロレスを見ていない人間が口にするのははばかられるが、ともかくプロレスを、プロレスラーをめぐる話というのは、本当に面白い。俺がテレビを通じて見ていたあの世界の裏側でレスラーが語っていたこと、本当にいい。プロレスと、猪木から仕掛けられたアルティメット、バーリ・トゥード(この語がよく出てくるが、今では死語に近いな)の狭間で苦しみ、あるいは活路を見出そうとする彼らの言葉は。

『子殺し』1.4

 さて、そんな本書で語られているあの1.4は……って、書いていいのだろうか。べつに、暴露本でもないし、その秘密を売りにしているようなものでもないだろう。むしろ、レスラーの苦悩や葛藤を、の本だ。本なのだが、やはりなんとも。やっぱりそれは、買って読め。少なくとも、橋本が語っていたことはわかる。
 というわけで、お茶を濁して書くと、やはりWikipediaにあるように、ある種のガチンコであったと。試合の前にあるべき「ルールの確認」が行われておらず、双方に信頼関係がなかった。とはいえ、仕掛けたのは小川の側である。側、その側の意識はどうだったのか。あそこまでやれという指示だったのか……と、このあたりは。ただ、テレビでも放映されたリング上の様子からそのあたりを読み解ける部分もあるみたいで、そのあたりは興味深かった。もっともその当時の俺は、橋本と長州力の対立(図式でなく)なども知らず、よくわからなかった。
 あとはそうだ、当時でも「これはただごとではない」という話はあったのだった。乱闘で村上和成が頭部を蹴りまくられ、意識不明、鼻骨骨折。……って、それは本当だよな。本当じゃなかったら「人間不信」で。いや、今も乱闘を見返せば、「プロレス的」ではないやりあいをやっているようにも見える。ゴルドーのパンチとかも。
 まあ、そういうわけで(ゴルドーのパンチとかも、のあと、だいたい30分位経っていて、そのあいだWikipedia読んだり、YouTube見たりしてたわけだけど)、だいたいなんというか、あの1.4の背景については、だいたいこのようなものではないか、というあたりについて、なんとなく了解できたような気にはなった。むろん、あくまでこの筆者の立場において知り得た範囲について、だ。小川直也の口から語られるべきこともあるだろうし、またそれはべつの話かもしれない。あるいは、橋本真也が筆者にも語らなかったこともあるだろうし、今となってはそれを永久に知ることができない。

終わらない1.4

 でも、疑問は山積みでもある。1.4のその後。小川の圧勝を挟んだと次の(これもどうだったのだろう?)、飯塚と村上を含めた遺恨込みのタッグマッチでの橋本・飯塚組の勝利。あれなどは、1.4を見たあとのことだったので、正直、「プロレスの茶番」としか思えなかった(このあたりの感情は、小川と村上のほうが強いはずなのに、という勝負論的価値観に支配されていた)わけだし、あれはまさしくプロレス的なものだったろう。だとすれば、その「ルールの確認」はどう行われたのか。どういう筋書きだったのか。

 そしてなにより、1.4につぐ衝撃ともいえる、4.7「負けたら即引退スペシャル」。ここにおける橋本の敗北、というか、この試合自体。なにせ、前のタッグマッチを見せられていた俺には、ここも橋本が「プロレス」で勝つのだと、そう思えてならなかった。そんな風にもやもや、いらいらしていた。が、結果は激闘の末に小川の勝ちである(なるほど、本書を読んだ上で映像を見れば、小川の脱臼も確かのようだ)。そのとき、俺は、俺が期待して、それでも裏切られるだろうという結果になったように見えたのに、あっけに取られたようにも思う。しかし、では、この試合はなんだったのか。これもガチだったの? それとも、ぜんぶ筋書き通り? あるいは、俺が想像していたような、「特別なプロレス」だったのか?
 その答えは、本書には書かれていない。ケツ決めについて語られぬ以上、語られぬ話なのだ。そしてまた、俺のもやもやは続くのだろう。

語られぬ神

 語られぬもの、といえばアントニオ猪木である。本書のタイトルは『子殺し』。親は猪木であり、殺される子は新日本プロレスであり、所属するレスラーたち。しかし、アントニオ猪木そのものについては多くは語られない。ミスター高橋本でもそうであった。遠巻きに語られる。なにをするかわからないものとして語られる。旧約の神のようでもある。猪木がなにを考えていたか、よくわからない。もちろん、神どころか、金銭問題などでもっと現実的ななにかに屈していての行動もあるはずだ。いずれにせよ、本書では猪木のインタビューなどは出てこないのだ。

――猪木さんも佐山さんと同じで、今のプロレスはおかしいと思ってたはずですよ。
「思ってますよ、それは。武藤ちゃんの試合を観て、物凄い怒ってましたからね、控え室で。“観てくれ、佐山、これを。これは何なんだよ! 俺、観る気しねえよ”って背を向けたりとかさ。もう、メチャクチャ怒ってましたよ。それはよく分かりますけどね、俺には。リングの上で何が行われて、何がどうなっているか俺も分かるから」

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200801/at00015984.html

 むろん、ネットを探せばこのような文章も出てくる。というか、俺が知らないだけで、猪木側や小川側から1.4について語られているのかもしれない。よくわからない。ただ、『子殺し』でも多くのページが割かれているように、決定的ななにかは語られていないのだろう。いや、上の続き読みたい。
 と、まだまだ、俺の中で、あのあたりのことは終わりそうもない。一方で、復興を果たしたというスポーツライクな新日本プロレスの現在に興味があるかといえば、これは正直、ないのだ。俺が見たいのは1.4、暴力、虚実、なにか得体のしれないもの。総合格闘技に求めても、ついに見つからなかったもの、ただそれだけ。いや、違う、プロレスラーの生きざま、言葉。しかし、しかしだ、リングに興味のないものに、それを受け取る資格があるのだろうか。ないはずだろう。ないはずだろうが、しかし、どうしてこんなに引き寄せられるのか。俺はなにが見たいのか。俺はなにを知りたいのか。

 ……今日の東スポを開いてみれば、小川はIGFを批判し、猪木は北朝鮮へ。まったくよくわからない。