見晴らし、アホらし、いと貧し


(写真の場所と下記内容は無関係です、というわけではないですけれども、ここの具体例をどうこう論っているわけではないですので)
 公園とかの展望台に登ったのに、樹々が生い繁っていて景色がよく見られなかったって思ったことはないかしら? わたしにはなんどもあるし、これからもあるだろうと思う。すごくあほらしい気持ちにさせられるし、まったくうんざりしてしまう。景色を見られるに、樹の枝なんてぶった切ってしまえばいいのにって思う。
 なんて乱暴な、って思うかしら。でも、考えてほしい、なんのために公園なら公園を整備して、見晴らし台やらベンチやら四阿やらを作ったのかということを。そこに関していえば、景色を見るためなの、眺望なの。ときには、「かながわなんとか50景」とかに選ばれていたりすることもあるだろうし、ともかく、それが目的なの。
 なのに、やっぱり「なんて乱暴な」が先行しちゃって、役所とかに「樹がかわいそうだから切るな」って抗議の電話があったりするわけ。かわいそうだ、乱暴だ、と。あほらしいと思うかしら。そんな人間がいるから、道理が引っ込まなきゃいけなんだ、と。でも、実のところ、わたしは、あまりアホだと言い切れないとも思う。いや、アホだと思うところもあるのはたしかなのだけれども、アホだと言い切る人間にはなりたくない。なぜって、やっぱり樹がぶった切られてる寒々しい姿や、さらされてる切断面を見たら、あんまり楽しくないもの。それはそう。風景を見て楽しむためにどっかに登ったりしてるのに、できればそんなもの見たくない。
 ないものねだりと思うかしら。でも、そういうわけではないはずなの。たとえば、見晴らし台のまわりを植栽するときに、あまり大きくならない矮性種を植えるだとか、えらく成長のおそいやつを植えるだとか、きちんと計画しておけばいいはずなの。そして、そのあたりの視界は確保しようという意識があれば、計画的に剪定をして、樹姿を整えていくことも可能なはずなの。少なくとも、「ああ、ぶった切ったな」というように見せない工夫はできるんじゃないかしら。保護林だとか、もとから生えているものにしたって。
 でも、そうはならないところが多いの。やっぱり、お金がないことに尽きるんじゃないだろうか。計画段階から植物の専門家を入れるのにもお金がかかるし、きちんと毎年手入れするのにもお金がかかる。そして、たぶんだけれども、その結果、景色が悪くなったところで、「樹がかわいそう!」というほどの抗議はないんじゃないのかしら。もちろん、あったところで予算がなければ仕方ないわけなのだろうし、手すりが朽ち果ててるとか、トイレの水が流れないだとか、池の真ん中に人間の死体がさかさまにぶっ刺さってるとか、そういうほうが優先されるのも仕方ないのだし(もっとも、わけのわからない予算の使い方されてると思うことも少なくないのだけれども)。
 そういうわけで、どうも乱暴に見えるようなぶった切られ方だとしても、やっているだけずいぶんマシというのが現状じゃないかしら。でも、どんどん見晴らせない見晴らし台みたいなものばかりになっていくんじゃないかしら。もちろん、現場現場によって事情事情はことなるものだし、本来は繁らせるつもりなんてなかったのに、真下に住宅街ができただとか、手出しできない類の森になっただとか、いろいろあると思う。思うけれども、まあまったくともかくお金がなくて、またそれも言い訳になるし、言い訳と言っても無い袖は振れないと言われたらそれまでだしというような、どっかの赤ヘルみたいな状態というのが今のこのなんとかいう島国の実情であって、これからもだんだんアホさと貧しさでろくでもなく見晴らせないものになっていくのでしょう。おしまい。