現世に煉獄はなく、天国か地獄だけがある。なぜなら、忍耐強く苦痛に耐える者は楽園を有していて、そうでない人は地獄をもつからである。
――聖フィリッポ・デ・ネリ
眼鏡を外したおれの状況把握能力というのはたいへんひどい。視覚ばかりでなく、相手が何を言っているのかもよくわからなくなる。文字通り周りが見えなくなる。おれがはじめてのバリウムということで、看護師さんが発泡剤の説明を丁寧にしている……みたいだ。おれはなぜか発泡剤の入った容器に焦点を合わせようと苦心していた。なんの意味もなかった。
発泡剤の顆粒を喉のおくに押し込む。小さな容器に入った水を飲み込む。口の奥だか喉だかがブワッとなる。やがて胃がブワッとなる。ゲップをするなと言う。バリウムに入った紙コップを手渡される。意外に思いな、と思う。
さて、これを飲むのか、と思うと、「飲め」の指示が出ない。手に持ったまま立てられたベッドのようなところへ行けという。「立てられたベッド」というのも今書いている表現であって、目のよく見えないおれには「なんらかの機械」といったところなのだが。まず、バリウムを持ったまま横向きになれと言われる。指示の右と左も混乱しはじめている。バリウムなしで一枚撮られたのか? 記念撮影? よくわからない。そして、次にようやくバリウムを飲むことになった。
こないだテレビのバラエティ番組で芸人がウオッカとバリウムの混ぜものを飲まされていたが、おれのバリウムにウオッカの気配はなかった。味はマイルドに甘く、のどごしも重量感があって悪くない。プロテインなどもこのくらいの粘度があればいいのに、などと思う。そのときは、そんなことを思っていた。
そこからが軽く地獄だった。体育の授業かなにかでいつまで経ってもダンスの振付が覚えられないガキみたいだった。まず、初手からだめだった。飲み終えたバリウムの紙コップを左の台に入れろという指示に対して、いったいどこに紙コップ入れがあるのかさっぱりわからないのだ。思ったより左に思ったよりしっかりした紙コップ入れがあった。そして、サイドバーを逆手で握れなどと言われ、いったいどう握っていいのかわからない。三回くらいダメ出しされる。台が動きはじめる。
おれは台の上で三回転がれだの、もっとお辞儀の姿勢をしろだの、いろいろの指示を受けた。不器用に従った。おれはいったいなんで転がっているのかと思った。これはひょっとして弄ばれているのではないか、などと妄想したくらいだった。ともかく眼鏡がないおれはなにがなにやらよくわからずいろいろな姿勢をとった。さらには、息を止めてとは言われるが、息を吸ってとは言われないので、タイミングがわからず「え、ここでは苦しいです」というような事態にも陥った。おまけに胃の方からゲップがせり上がってきて、抑えるのに難儀する。口の中に少し出したりする。それを飲み込めばまた胃が膨らむのだろうかなどと思う。
そして長く、つらい時間が終わった。
終わったあとは、バリウムの排出の説明が待っていた。硫酸バリウムの排出。検査室の前にメーカーのものや病院作成の貼り紙などがあった。おれは検査前にそれを熟読していた。要するにこういうことらしかった。飲んだバリウムは時間が経てば経つほど固く、出にくくなるので、一気に勝負をつけてしまえ、と。
看護師さんの説明もそのようなものであった。ゼンノエルシドのような名前の下剤を普通2錠のところ、あなたは初バリウムだから4錠。「なにかお腹を下す食べ物とかありますか?」と聞かれたので、「牛乳で一発です」と答えると、「それはいい。牛乳でドバーっと出すのがいい。さっきも、いつも牛乳でバリウムを流してしまう人がいた」などとまくし立てられる。あとから知ったが、いつも牛乳を使うとその看護師に告げたのはおれの上司だった。
常温のいろはす500mlと下剤4錠を渡されて、おれのその日の健康診断は終わった。なぜ希死念慮こぼれ出すおれが健康診断など受けたのか? それについては結果が出たあたりであらためて書こう。
ともかく、今はバリウムの排出より大切なことはない。おれは更衣所で早くも1錠投入した。病院からの帰り道、さっそくコンビニで普通の牛乳(薄くて安いやつだとわりと平気なのだ)を500ml買った。会社につくとさっそく大きめのマグカップに冷えた牛乳を注ぎ、さらに下剤を1錠追加した。すぐに昼飯だったので、パンとサラダ(という名のカットキャベツ)で残りの牛乳も飲み干した。水もガブガブ飲んだ。いつでも来い、来るなら来てみろ、の強い意志だ。
と、思っていたらわりと早くきた。ホワイトウォーターアフェア。謎の白い液体。「なんだ、バリウム排出なんて簡単じゃあないか」。おれはそう思った。そう思ったおれは甘かった。
なんどかのホワイトウォーターアフェア。やがて、出るものもないのに主張してくる腹。そうだ、薄いホワイトウォーターアフェアでは、あの粘度の、あの量のものを排出しきるには足りんのだ。
おれは帰り道の自転車、急いでもいないがすべて立ち漕ぎだった。
次の日は、今度は秘する方にアフェアは転じた。腹はゴロゴロいう。排出口は悲鳴をあげる。しかし、出るものといったら……謎の白い欠片。ここでようやく、おれは世間で言われる「バリウムのそれ」と対面した。もとはといえば鉱物というじゃないか。おれは生まれてこの方、鉱物を産んだことなんてなかった。これが、なんどか続いた。そろそろじゃないかと思っても、まだホワイトコーティングがなくならない。
おれは不安になってきた。ホワイトウォーターアフェアの大放出で、逆に水分が失われ、頑固な固体が形成されてしまったのではないか。Wikipedia先生などを読んでは「その高比重の特性から、便秘などで消化管の同一箇所に留まった場合に穿孔を引き起こすなどの重篤の症状」になったりするんじゃないのかと思った。新ビオフェルミンS錠を毎日飲んで、その点では非常に健康的なおれにとって、この状況はたいへん苦しいものだった。
が、2日目の夜のことである。秘する方に転じていたおれは、下半身からの信号を「どうせ嘘警報だろ」と思った。思ったが、もしも嘘じゃなかったらどうするのだ。後始末をするのもおれなのだ。いやいや手洗いにゆき……そこで出会ったのはホワイトウォーターアフェアでも謎の白い鉱物でもなく、ブラックタイアフェアだった。KenとBenのとき対面したあいつだった。
かくしておれには平和な日常が戻ったのだった。
……とかいいつつ不安なのは、おれが検査の日の朝に水をガブガブ飲んでいたことである。前日21時までに食事を済ませる。了解。検査当日は飲食を控える。了解。が、おれはこの当日の飲食について、なぜか「水はいいのだ」という勘違いをしてしまったのだ。そして、なぜ水をガブガブ飲んだかというと、「受付後すぐに検査用の採尿をすると心得よ」と案内文に書いてあったからだ。出なかったらどうする? それは困る。そういうわけで、おれは普段以上にガブガブのタプタプで病院に出向いたのだ。胃部レントゲン検査の前にそれを尋ねられ、「今朝、水飲んじゃいました」と答えた。看護師さんはおれが言ってもいないのに「7時ごろですか? コップ2杯くらいですか?」といって、検査用紙にそう記入した。いや、もうちょっと近い時間に2杯以上……。
でも、だからって、バリウムが無駄になったってことはねえよな? あの、宇宙飛行士の訓練の人体実験状態での撮影時に、ダメならダメって言うよな? 結果自体はどうでもいいが、結果が出ませんからもう一度、というのだけは勘弁してほしい。以上。
バリウム検査は危ない: 1000万人のリスクと600億円利権のカラクリ
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……まさかさすがのAmazonもバリウムは売ってねえよな? と思ったら、いきなり「危ない」だの「リスク」だの「利権」だの出てきてビビった。バリウムは嫌われ者だとは思うが、しかしまあ何にでも……というか。