戦後80年。「戦争が終わって僕らは生まれた」と歌われたのが1970年のこと。おれが生まれたのはさらにその9年後のこと。おれ自身も子供のころから「自分は戦争から遠い世代だ」と思っていた。
とはいえ、まだ祖父母が生きていた。おれの世代の祖父母となると、戦争を経験した世代ということになる。
父方の祖父の話は前に書いた。
「おじいさま(私の祖父)は、京大を首席で出て、化学者だったでしょう。それで、海軍の技術大尉になったの。最初は、四日市の燃料廠にいたんだけれど、マレーやボルネオで出た石油を台湾で精製するからって、高雄に行くことになったの。
それで、おじいちゃまの家族が、結婚相手がいたほうが、生きて帰ろうという思いが強くなるだろうって、慌ててお見合い相手を探したの。それで……(祖父の兄と、えーと、祖母側の誰かが友人だったのかな。私の失念)、台湾に行く前日によ、ともかく会ってくれって。それで、東京まで来たんだけれども、でも、●●さん(祖母の兄)、そのころ、一高の土木を出て、建設省、そのころは内務省に勤めていたんだけれど、とんでもない話だから断るって言って、昼休みに抜け出して、ホテルに会いに行ったら、これがおじいさま(私の祖父)と意気投合しちゃったのよ! それで、わたしは家でのんびりしていていいって言われてたのに、急に電話がかかってきて、今から行くから、普段着でいいからって。そうしてちょっと顔を合わせて、次の日には台湾に行ってしまったの」
「それからは手紙のやりとりはしていたのよ。で、だんだん戦局が悪くなってくるでしょう。それで、化学者とかはさきに内地に帰ることになって、上海、そのときは陸軍が占領していたところに行って、そのあと、朝鮮半島を空路帰ってきたの。
それで、慌てて結婚式をしようってことになったのが、1945年の5月よ。京都の平安神宮で。それでね、花婿が遅刻しちゃったのよ! 東海道線で来ようとしていたら、爆撃されて、中央線で来ることになっちゃったの。あとからさんざん、‘もうちょっと待てば戦争終わったのに’って言われたわ。でも、そのときはどうなるかわからなかったから」
父の父は京大出の化学博士で、高雄にいた。松根油の研究などしていた。その後、早めに内地に帰還してきた。エリートというのはそういうものだ。
一方で、母の父の戦争体験はまったく異なっている。母の父は一兵卒として徴兵され、中国に送られた。しかし、すぐに帰ってきた。なぜか。その理由は「おおじぬしだったから」と笑い合っていたが、子供のおれにはよくわからなかった。大地主というほど、母方の家は裕福という印象はなかったし、地主だったら戦争から逃げられるの?
その後わかったのは、祖父が「大地主」ではなく「大痔主」と言われていたことだった。あまりにも痔がひどく、除隊されたというのである。
……わが母方の一族では、そういうことになってる。あらためて母に聞いても、それ以上の話は出てこなかった。母方の祖父はそれはそれは厳格な人だったらしく、孫の自分から見たらそうでもなかったけれど、直接聞くのはためらわれた。その祖父も亡くなって長く経つ。
これ以上、なにか調べようという気はない。たくさんの人が兵隊にとられた。その中には、痔が原因で除隊された人間が一人くらいいてもおかしくはない。おれはそう思うことにした。
しかしまあ、それが本当だとしたら、おれの出生にも関わる話である。母方の祖父母が出会い、結婚したのは戦争が終わったあとのことである。もしも祖父が痔でなくてそのまま中国にいて、戦場で死んでいたら、おれは生まれていなかった。おれがここにいる原因は、痔かもしれないのだ。痔のせいで生まれた男、それがおれである。
などという話ができるのも、まだおれの世代からの戦争が祖父母の代だったということが大きい。おれは曽祖父母のことをまったく知らない。なにか聞いたことはあるかもしれないが、これといって覚えている話もない。そのくらい断絶がある。
おれより下の世代、どのくらい下だろうか。10歳下、20歳下。そのくらいの人たちが、どこまで曽祖父母の話を知っているだろうか。おれにはよくわからない。おれの祖父母との距離より近いということはないだろう。
「戦争が廊下の奥に立つてゐた」という句がある。いつの間にかぬっと立ち現れるのが戦争かもしれない。戦争を知らずに生まれたおれらは、どうやって戦争を語り継ごうか。突飛な話だが、日記をつけよう。気がついたら戦争が始まっているかもしれない。そこに至るまでの日常、起こってからの日々、これを記録する。いくつかは後世に伝わる。そんなことをふと思った。あるいは、戦争経験のある祖父母の思い出がある人は、このように文章にしておいてもいいだろう。
以上。