『さかしま』J.K.ユイスマンス/澁澤龍彦訳

goldhead2005-08-22

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 金曜日の日記に「俺はデ・ゼッサントになればいいんだ」などと書いておきながら、そのあと俺は『さかしま』を読んでいないことに気がついた。読んだつもりになっていただけだったのだ。それはあれだ、俺が四千円もするハードカバーの函入り単行本(二つ目のASIN)も買って満足していたからだった。家に帰ると、俺は慌てて本を引っ張り出した。モロー展の予習だ。
 さて、俺はこの度「読んだつもり」の恐さを知った。全然想像と違ったのだ、デ・ゼッサントさんは。俺もっと、完成された‘美と頽廢の人工楽園’の主を想像していたのだ。サドの小説に出てくるような、確固とした館の主を。しかし、実際のところどうだろう。俺には都会生活に疲れて田舎暮らしをはじめたおっさん、のように映った。相手にするジャガイモや茄子や海の幸や手打ちそばや草木染めが、古いラテン語・モロー・ボードレール・黄金細工の亀などに変わっただけである。そして、田舎暮らしのおっさんは肉体の疲労に耐えきれずに都会に戻り、また、デ・ゼッサント氏も精神の疲労に耐えかねて医者にかかり、結局のところ人工楽園を諦めて凡俗のパリに帰るのだ。いやはや、帰っちゃうんですよ。
 もちろん、今現在これを読んだ人が思うことであろう、「こいつダメオタだな」「ひきこもり?」という面も見逃せない。例えば美の典型として機関車を挙げるくだり。

クランプトン式機関車は、ほれぼれするような金髮と鋭い声の持ち主で、まばゆい銅のコルセットに締めつけられた、ほっそりした背の高い女だ。粋な金髮をきらめかせ……

 これはもう「萌え擬人化」そのものじゃないですか。いや、何か美しいものを女性に喩えるなんてのは、比喩の歴史と同じだけ、人間の言葉の歴史と同じだけ長いような気もするけれど。まあ、他にも世間でヒットしている作品への反発とか、そういうところが存分にありますわ。
 あと、キリスト教や神について。これは事前に予習の予習(松岡正剛「千夜千冊」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0990.html)をしておいたから気にしつつ読んだけれど、なるほど、そういう場面は多く出てくる。召使いの顔を隠すための衣装から、僧院を思ったりと。そんなのを気にしすぎたせいで、美と頽廢をあまり感じられないような気にもなった。なにかこう、デ・ゼッサントの目の端に信仰とうやつがちらちらしていて、そこに何かがありそうなんだけど、それを認めるのもなんだろうという、微妙な距離でのいったりきたりと、そんな感じが、確かにある。
 そんなわけで、兔にも角にもちょっと‘想定外’だった『さかしま』。ひたすら主人公がああだこうだ言うだけの筋らしい筋もない話。結局のところこれがどうだったって、なんかもう、けっこう面白かったと言える。この愛すべき主人公が、いきなりロンドンへ行こうと意を決したのに、街で地図を見てイギリス人を見て雨も降ってきたから面倒になって帰ってくるあたりなんて最高だ。他の客が居て演奏会に出向くのが嫌だなんて話をぐだぐだするあたりもいい。誰か彼にレコード・プレーヤーを贈ってやれ。そして、ヴィリエ・ド・リラダンの『殘酷物語』について話そうじゃないか。あと、俺も奇怪な人工的植物好きだぞ。……などなどという関わりをデ・ゼッサント氏は嫌うに違いない。とかくこの世はアレックス坊やにもホールデン少年にも住みにくいものなのだ。人間世界の凡俗の波に乗ってる俺などは、みんな俗の方に引き寄せなければ気が済まないからな。