おそれ三鷹の鬼子母神

http://www.j-cast.com/2006/10/03003219.html
 はじめに断っておくが、俺はこの件をテレビの放送ではじめて見て、「庭付きの立派な家だ」と思った人間である。そのとき、そうとしか思えなかった人間である。その後も、そう思っている人間である。以下に続くのは、そういった負け組の貧乏人、下層階級の高卒が嫉妬心から湧き出た言葉を書き連ねたものなので、読みたくない人は読まず、「さくらちゃんの心の世界」などを読むべきです。
・最初に知ったとき→id:goldhead:20060927#p3(ああ、心の貧しさ)
・マスコミで報道されたとき→id:goldhead:20060928#p3(ああ、募金活動)
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 最初にメモを残したのが、けっこうためらった末のものであったため、その後もちょくちょくと動きを見ていた。「週刊女性」の記事も読んだ。そして、じわじわと、着実に伸びていく募金額に、なんとも言えぬ思いを抱いていた。なんといっていいかわからないが、うーんと唸ってしまうような。そして、大きな動きがあった。このネット側(あめぞうとはなつかしい文字列)との直接対話だ。先の記事なども含め、自分の中で何か、さらにカーッとくるところがあったので、書き留めておく。
 どうだろう。二次情報だか三次情報だかわからないが、「さくらちゃんを救う会」については、集めた金をどうしてやろう、という悪意は、ないように見える。ただ、認識が、甘いというか、ずれているというか。
 親が我が子を救いたいという思いは、ものすごいエゴだけれど、誰にも否定できるものではないように思える。ここでいう「否定」は、思いそのものに対する「否定」であって、そういう親のいうことすることに従わなければいけないとか、どんなワガママでも通さなければならないとか、行動や権利に対するものではない。我が子のために鬼にでもなんにでもなる、親の「心」は責められない、ということ。「心」はわかってやれるが、できることとできないことがあるということ、許されないことと許されることがあるということ、だ。そして、その身近にある、同じ年ごろの子を持った親たちが、別の親に感情移入する「心」も、理解できないでもない、ということにしておこう。
 だが、その、親の心というエゴ、多くの人の同情を得ようとするエゴについて、募金集めともなると、「心」の問題では済まされない、もっと行動としての、実利としての、道理としての側面も出てくる。そこで認識があまりにも甘い。きっと彼ら、家庭を築き、子供もいるような富裕層、世の中の太陽しか浴びてこなかった人間たち、善意の光しか見えない人間たちにとっての、病気の子供という完全な善的存在への盲信、盲信でしかないという誤算。
 街角の募金活動、かわいそうと募金する人もいるが、通り過ぎる人もいる。通り過ぎる人の中には、その募金活動自体にうさんくささを感じる人、臓器移植に反対的な意見を持つ人、そして、貧乏人、いろいろいるだろう。街角なら通り過ぎるだけで、わざわざ探偵的行動を取って募金箱持った人間問いつめるやつは、まあ、ほとんどいないだろう。しかし、ネットは違う。ネットは意見が飛び交い、情報が飛び交う。通行人は黙っていない。通りすがりは発言する。
 しかし、それも自業自得。どこかの誰かが活動を勝手に取り上げたわけじゃあない。独自ドメインhttp://www.sakurahelp.com/)取って堂々の大公開、mixiでもチェーンメールだかなんだか。ネットを利用してやろうとしてきたのはあちら。今さら、ネットに不慣れ、耐性がないといっても誰が信じようか。もっとも、これによってより多くの注目が集まり、あるいは募金額に寄与した点はあるやもしれず、それも策のうちというなら感心するよりほかないが。
 そして、白日の下にさらされる事実。すなわち、太陽の光を謳歌してきた彼ら富裕層、自分らが富裕層と気づいていない、純真な青年たち、そうだ、大人にはあまり思えない、彼らの運動。あるいは、業界人様がこれ見よがしに仕掛けるイベント性。それを、誰もが反論しにくい、批判しにくい錦の御旗たる「病気の子供」をかかげている、その構図。これを面白く思わない人間、道理に合わないと考える人間、少なからずいて当たり前だ。
 そのうえ、トリオ・ジャパンなど背後関係など怪しいところもあって(「週刊女性」におけるコメントはすごかった)、両親が自己資金三千万円を最初から用意する気があったのかどうかも定かでなく、それがなぜか目標額をさっ引くのではなく、募金に溶かされたりと。俺は彼らの活動を「死ね死ね詐欺」とまでは言いたくないが、少なくともこうは言いたい「それを売れよ」と。「武蔵もういいよ」と。