『フロリクス8から来た友人』フィリップ・K・ディック

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「タイヤの溝掘り職人です。中古スキブ展示場で働いています」
「なんだ、それは?」

 主人公はタイヤの溝掘り職人。それだけでもうたまらんじゃないですか。それで、このお膳立てで、なんとか最低限の犠牲フライを打ち上げてくれた我らがPKD。『アルファ系衛星の氏族たち』(id:goldhead:20070717#p2)よりはよかった。そう断言してもいいでしょう。
 いや、お膳立てもきちんとしている。人類から進歩した、高い知能を持つ<新人>と、読心能力や予知能力を持つ<異人>が、大多数の<旧人>たちの上にあって世の中を支配している。そんななか、一人の旧人が外宇宙に助けを求めて旅立ったが、彼の消息も知れぬまま。そんな世界で、タイヤの溝掘り職人や、危険思想書の売人や若い女や最高権力者や世界最高の頭脳の持ち主なんかがいろいろ絡み合ったり合わなかったり。それでやっぱり、『アルファ系』のロード・ランニング・クラムと被ってるっちゃあ被ってるモルゴ・ラーン・ウィルク。こいつのキャラもいい。そうだよ、<旧人>の英雄プロヴォーニは異星人を連れてくるんだが……。そのあたりは『幼年期の終わり』だとか、そんなのを思い浮かべてもいいだろうし、あるいは権力者の奇抜なアイディアなんかヴォネガットっぽいとか思いもする。
 でもな、やっぱり破綻、しちゃっとるよな。どこにもそのメーンの見せ場というか、大筋のところ逸れてるものな。うん。でも、ところどころに「おおっ」と思うようなところもある。それは、ところどころの、あまり本筋とは関係ない思索だったり、会話だったりにちりばめられたSFっぽいSFっぽさだったり(神の死骸の話とか)、ディック神話世界のかけらだったり、猫の話だったり、畢竟ずるにものすごくシンプルな人間のことだったり。

「神についての伝説をひとつ聞いてください」とモルゴはいった。「はじめに神は卵をつくられた。ある生きものをおさめた巨大な卵だ。神はその殻を割って、中の生きもの――のちのすべての生物のもと――を出してやろうとした。が、殼は割れなかった。しかし、神のつくりたもうたその生きものには、その仕事におあつらえむきの鋭いくちばしがあった。そこで、その生きものは自分で殼を割り、卵から出た。そのおかげで――いま、すべての生物に自由意志があるのです」

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 そういや、モルゴの台詞に次のようなのもあった。

 あなたの精神の記憶領域に、日本の偉大なる侍についての禅の逸話がありますね。
 ふたりの男が、その侍に挑戦しました。ふたりは、小さな島に漕ぎだして、そこで対決することに同意します。禅の弟子だった日本最高の剣士は、自分が最後に小舟を離れるようにしました。あとのふたりが島の岸辺にとびおりたとき、彼は櫂を押して島を離れ、ふたりとふたりの剣を残したまま、小舟で漕ぎさったのです。

 おお、なんかこれ、鈴木大拙の英文著作(id:goldhead:20070402#p2)あたりから引っ張ってきたんじゃねえの? なあ。ちゃうんか? どうなんだ、禅とディック。と、そこで一番日本要素の強い『高い城の男』(asin:4150105685)を引っ張り出してみる。こいつは名作。と、巻頭の謝辞の中に次の一文。

二百五ページに引用した千載集の和歌は、鈴木大拙著『禅と日本文化』所載の、同氏の英訳によった。

 ああ、やっぱりか、さすがは‘博覧狂気’の男、易を押さえて禅を押さえねえはずがない。俺などはただ『ヴァリス』などに知的・知識的に太刀打ちできず、その悲しみにばかりとらえられるが、ちゃーんと読めば、その中に禅を消化した、あるいは禅を知り禅にならざるディックがいるのやもしれん。しっかし、禅とSF、なにかしら相性よさそうだ。ディックのメーンテーマの一つとも無縁でないのではないのか。鈴木大拙先生に次のようなエピソードがある。『禅』の巻末解説(秋月龍みん)より。

 つい先年のことである。ある外人の集まりに臨んだ大拙先生は、「バイブルに神が光あれと言ったら、光が現れて夜と昼ができたとあるが、いったい誰がそれを見ていたのか」という質問を発せられた。会集一同、何を馬鹿なことを言い出すかというような顔をするのみで、誰一人としてこの難問に答え得るものはいなかったという。先生は後に筆者言われた、「わしは言った。わしが見ていたのだ。このわしが、その証人なんだ、とね。ほかならぬわれわれの心に、そのはたらきがあるのだ。わしらは時々刻々それを行じているのだ」と。