桐生第一高校野球部員強制わいせつ事件問題

桐生一部員わいせつ逮捕 甲子園辞退せず

http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/08/01/16.html

 甲子園出場予定の桐生第一高校の野球部員によるわいせつ事件について。こういう場合取りざたされるのは、犯人自体ではなくチーム、連帯責任の連帯の方にピントが行く。高校生が同じくらいの女の子に通り魔的痴漢(?)をするのはあまりないように思え、マスコミさんは彼の性欲のどうにもならなさ、‘心の闇’にスポットを当ててみてもよさそうなものの。
 さて、連帯責任、かような場合、桐生一は辞退すべきかどうか。昨夜のJ-WAVEだったかな、そこでもリスナーの意見を募っていて、女性などからは出場すべきでないという声が大きいようだった。
 ぼくも考えた。そして、ぼくの頭には、ある言葉が思い浮かんだ。思い浮かんで、「桐生一に対して出場辞退すべしという意見には反対だ」というスタンスになった。その言葉は、第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターのものだ。

Penalties against possession of a drug should not be more damaging to an individual than the use of the drug itself.
(ドラッグ所有に対する罰は、ドラッグが使用者に与えるダメージより大きなものであってはならない)

http://en.wikiquote.org/wiki/Jimmy_Carter

 訳は英検準二級のぼくによるものなのでいい加減。このフレーズ、中島らもの小説の中に出てきたかと思う。ぼくの頭にはこれが思い浮かんだのだ。
 さて、高校野球における連帯責任とドラッグ、そしてカーター、いったいどのような関係があるのだろうか。あなたにはわかるだろうか? ぼくには正直言ってわからない。わからないけれど、思い浮かんだぼくに対するぼくの責任として、どこでイメージの連想があったのか考えてみよう。
 イメージ、そうイメージだ。連帯責任といっても、ほかの部員に強制わいせつの罪を問えるだろうか。それを罰せよと言えるだろうか。ぼくには無理だ。所属する学校、会社、組織、職業、その中の誰かが何かを犯したからといって、その罪は問えない。問われたくもない。
 だからといって、まったく無関係でいられるかしら。それも無理だし、完全に切り離せよとは言えないと思う。ある企業の中の個人が不祥事を起こせば、その企業の人が色眼鏡で見られる。警察官が不祥事を起こせば、他の警察官が。教職員が不正をすれば他の教職員が。アイドルグループの他のメンバーが。あまりにひどい差別や、いわれのない侮蔑、嫌がらせはよくない。しかし、ある程度のイメージを持たれてしまうのは仕方がないことだと思う。
 なぜか。なぜならば、今までその他の悪くない個人は、その所属によって利があることもあったからだ。警察官なら警察官の、教職員なら教職員の社会的地位。一流企業の勤め人、一流大学の生徒、名門野球部の部員……。メリットだけ受けて、デメリットは受け取らずというわけにはいかない。たとえば殺人者の罪を殺人者と同属の者に負わせるわけにはいかないが、イメージの悪化は受け入れなければいかない。
 もちろん、当人の意思と関係ない、生まれついての所属といったものもあるだろう。そういうケースは別だけれども、ある程度自分の意思で選んだ所属・属性については、いくらか引き受けなければならない部分もあるのではないか。たとえば、積極的に日本人であることに誇りを持つのであれば、外国で日本人が犯罪を犯した場合など、誇りに釣り合うだけの慚愧を抱かねば嘘だ。自分が選んだ職や立場であれば、同職の人間が犯したイメージの悪化は引き受けねばならない。
 だが、それ以上である必要があるだろうか。甲子園に行けなくする、上や周りの処置が必要であろうか。もし、この高校野球部の犯した罪が、対戦相手を買収しただとか、老けた部員がいると思ったら高校生に偽装したロジャー・クレメンスだったとか、そういう甲子園出場自体に対する罪であれば、出場させるべきではない。しかし、一部員のわいせつに対する罰が、ほかの部員や部、学校にとって、それによって蒙るダメージより大きいものであっていいだろうか? ぼくはよくないと思う。もちろん、「出た方がダメージが大きい」というのであれば、辞退すればいい。
 そして、「出るな」という人は、出てきた桐生一校に対して、ブーイングを浴びせればいいと思う。部員たちに向かって、「お前らは強制わいせつ犯と同類だ。出る資格はない!」と、面と向かって言えばいい。まあ、出る前に言ってもいいか……。ともかく高野連などが出場停止の処罰を下すことには反対だ。
 しかしながら、これで下手に桐生一が勝ち進んだりすると、「逆風の中での健闘」、「野次に耐えながら、ひたむきに頑張る球児」的な、ちょっと歪んだ美談になりかねないという懸念、これはありうる。これが、ともすればわいせつ事件被害者にとって面白くない話であることも想像できる。しかし、そうなればこそ、やっぱり性欲をどうにかできなかった犯人個人に、犯行自体にスポットを当てていくべきではないだろうか。わいせつ事件を重く見るのならば、そっちの方がいいのではないかと思う。
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 結局何がカーターだったのだろう。これに関する罰は、それ自体以上のものであってはならない……的な? まあ、予想通り関係ないのだな。どうなってるぼくの脳。