おはようございます。昨日の帰り道と今朝の往き道は寛容は不寛容に対して寛容たるべきかどうかについて考えながら歩いてきました。この問いかけは、小学校の国語の教科書に載っていたたれかの文章のタイトルもしくは内容だったと思います。この文を読み解くにあたって、解説を進める教師その人が内容について理解していないという不安がよく伝わってきて、結局何が導き出されたのかよくわからないまま授業が終わったように思えます。それだけに、この問いかけばかりが頭に残り、果たしてそこで何が論じられていたかはさっぱり覚えてないというあんばいです。
寛容は不寛容に対して寛容たるべきかと、何度か考えたことがありますが、どうも迷路に入り込んでしまうようでした。そこで、そもそもこの問いかけが成り立っていないのではないかと思いました。「寛容は」と言葉を発した瞬間に、すでにこたえはタタターと遠くに去ってしまって、遅八刻なのではないでしょうか。「寛容は」と自らを定義して不寛容なるものと分かった段階で、すでに問いかけ自体が自壊しているのではないでしょうか。
我を「寛容」として他を「不寛容」として分かった瞬間に、すでに「寛容」は寛容たるところを失ってしまい、あとは自と他を分ける分ける分ける分かりがあるばかり、その分かりによっていくら物事の是非や善悪を分かったところできりのない分別の迷宮に迷い込むばかりではないでしょうか。世に分別は必要な物ですが、分かつはてには別つところがあるばかりで、「寛容」なるは成り立たぬように思えます。
ですから、その分かち以前のところで、「寛容は」と言ってしまうところにおいて、わかってしまうところにおいて、「寛容」は「不寛容」に頭を下げるくらいの心持ちであるべきではないでしょうか。
それでは、逆に「不寛容」にとって頭を下げてくる「寛容」とはいかなるものでしょうか。「不寛容」が「寛容」に不寛容であるということは、「不寛容」の不寛容が寛容になるということであって、そこで不寛容に寛容があらわれてしまうという矛盾が生じることになります。「不寛容」のなすがままに「寛容」が殺されるとき、従うとき、そこには寛容があるという矛盾になるわけです。だからといって、「不寛容」が「寛容」に対して寛容な態度をとれば、それもまたあからさまに寛容になるという矛盾です。もちろんこの矛盾は「寛容」が「不寛容」にとって不寛容である、別物であるという態度をとるときにあらわれる矛盾と互いに相照らすものです。
したがいまして、「寛容」は寛容なるがゆえの不寛容であるという絶対的な矛盾を抱え込んだまま、やはり「不寛容」に対して「寛容」であるべきだという結論に達するような気がします。その矛盾あるがままの状態が、やはり「不寛容」の矛盾ととけあって解体されるものであるように思えます。「不寛容」に対する不寛容というのは何のひっかかりも契機もないしごく単純な対立の構造ですから、そこではその対立の場における理屈や力によって物事が決まるという、きりのないあらそいに尽きるように思えます。
しかしながら、「寛容」が「不寛容」に対して寛容なる態度をとるときは、その対立において戦いを抛棄し、負けるような事態になります。現実的な問題として、そこで「寛容」が寛容たるを守るべくして寛容自体を抛棄することができるかどうかということです。そこで問われるのは「寛容」の「寛容」に対する信仰の強さのものであるように思えます。たとい我が身が屈するとも尽きるとも、「寛容」は滅せぬという確信、信の問題に帰するものであると思えます。そこではさらに一転して、「寛容」が「寛容」に対する絶対があらわれるようにも思えます。そこには「不寛容」に対する究極の不寛容があらわれるという、やはりここにも矛盾がありうるのではないでしょうか。
そもそも私などは「信」の無い身ですから、信のために信ずるものをなげうつことができるかどうか、そこに思いをいたらすことはおおよそできそうにはありません。しかし、この「寛容」と「不寛容」を他の言葉に置き換えて、相反するものの相互の中に内包される矛盾とその統合について考えてみるのは、あるいは「信」にかかわるひと触れになるのではないかと想像してみたりもするのです。