人生最大のピンチ〜的場は四着だな〜


 あれは忘れもしない十年前の五年後の八年前の半年後の五月の終わりの半年まえ七ヶ月後のことだ。大学をやめて行くあてもない無職の俺は大井競馬場にいて、やはり行くあてがなかった。ぶらぶら歩きまわって、直線コースの一番端、一コーナー近くに落ち着いた。一番端っこから、そこに何年もいるような顔をして、ポケーっと競馬を見ていた。平日昼間のよく晴れた日で、競馬場は空いていた。俺は一人だった。
 が、そこに一人の灰色の男が近づいてくる。平日の昼間から競馬場にいるようなおっさんだ。迷いなく俺に近づいてくる。俺に顔見知りなどいない。煙草の火でも借りに来たのかとぼんやりしていると、近づいてこう言う。
 「的場は四着だな」
 おおよそ言ってる意味はわかる。文男か直之かはわからないにしても、だ。しかし、なにを言いたいのかよくわからない。世の中にはいろいろな競馬談義もあるだろうが、いきなり「的場は四着だな」と言われて、どう答えればいいのだろうか。俺がぼけっとしていると、なにも言わずに踵を返して立ち去ってしまった。
 次のレース、的場が四着だったかどうか、覚えてはいない。
 また馬券を仕込んだ俺は、一コーナーの方、スタンド前の端っこに行った。そのころは場内禁煙ということもなく、俺は思う存分ジョーカーをふかしていたと思う。競馬新聞を読んでないように読み、馬場を見ないようで見ていた。すべてに解放されて、俺はジョーカーをふかしていた。茶色で、細くて、ばかみたいなニコチンとタールを含んだジョーカー。
 気づくと、また一人、さっきのとはべつのおっさんが近づいてきた。俺は、なんとなく嫌な予感がした。まわりにはだれもいない。俺に、用があるのだ。俺はおっさんを見てないようで見つつ、近づいてくるのを待った。さっきのとはべつの、どぶねずみ色のおっさん、俺の近くで立ち止まって、馬場の方を見やりながらこう言う。
 「的場は四着だな」
 やはりか、と思った。そうなることはわかっていたんだ。まったく、予想通りだ。しかし、なにがどうなっているのかはわからない。文男か直之かもわからない。俺はわざとらしく手すりに肘をついて、馬場の方を見て、おっさんを無視しした。気づかないふりをした。馬場に馬がいたのかどうか。なにも見えなくなっていた。
 そして、二人目のおっさんも、無言のまま踵を返してスタンドの方へ帰っていった。いくらかの客と溶けこんで見えなくなった。俺は頃合いを見計らって(なんの頃合いか皆目わからないが)、陣取っていた一コーナー近くから歩み去り、スタンドの群れに紛れた。紛れて消えた。
 正直いうと、あれから十年以上経ち、ジョーカーがとっくに廃番になり、俺の人相も住所も変わってしまった今でも、この話をするのは少し怖い。思うに、俺はあのとき得体のしれないなにかに触れたのだ。同時に、とても具体的で、おそらくは陳腐ともいえるなにか。人違いにすぎないであろうなにか。それでも、俺の脳裏に焼き付いて離れない光景。
 人相も住所も変わってしまい、煙草を吸わなくなった今でもはっきりと触れる、あのぞっとする感じ。あのピンチは終っていない。人生最大のピンチ! うまく切り抜けることはできるだろうか?
 
 
 

・うっかり「今週のお題」に答えたが、こんな話を今まで一度も日記に書かなかったことから、俺の内心の真実味もわかろうというものだ。