近藤憲二『一無政府主義者の回想』を読む

一無政府主義者の回想 (1965年)

一無政府主義者の回想 (1965年)

 半分くらいは現代日本思想大系〈第16〉アナーキズム (1963年)で読んでいたのだが、あらためて読み返すことにした。

 著者・近藤憲二という人自身については生き証人、著述者という印象が強く、いくかはわかるかと思ったが、後半は自叙伝であって、いくらかはわかった。

 私には姉があり、私の生まれたのは明治二十八年、西暦でいえば一八九五年だから十九世紀のどん詰まりで、文字通り前世紀の人間、未年生まれだからおとなしく、しかも二月二十二日だからすこぶる割りきれる人間という勘定になる。

 これがなにか? というと、おれも未年の生まれで誕生日が二月二十二日だということだ。おれがおとなしいか、すこぶる割りきれる人間かどうかはわからぬ。同じ誕生日の有名人といえば河内洋佐々木主浩ということになる。おれは今日マジンプロスパーで大損をした。本当に関係ない。
 さて、回想録にはアナーキストらの名前は当然出てくるが、意外な名前も出てくる。

……彼が中尉で飛行機乗りだったころ、東京の校友会で出くわしたことがある。そのとき後に目白の女子大の校長になった井上秀子の旦那さんの、井上雅ニが卒業生でもないのに同郷の関係で出席して、誰れ彼れに話しかけて衆議院議員立候補の事前運動をしたことがあった。大西が突然立ち上がって、
 「われわれは、入船山の思い出のあるものだけが集まっているのだ。そこへ卒業生でもないのものがきて、選挙運動をするとは何事だ!」
 ときめつけた。わたしが「やれッ! もっとやれッ!」と声援すると、貴様気に入った! きて飲め! といったが、それ以上は相手にしなかった。

 この「大西」が誰かといえば、大西瀧治郎である。まことに妙なめぐり合わせにも思える。ちなみに、同じ同郷同校出身者に秋山徳三郎陸軍中将もいたらしい。
 妙なめぐり合わせといえば、このアナーキスト近藤憲二が衆議院で臨時雇いをしていたこともあるというからおもしろい。べつにテロルの下見でもなく、失業で困っているところに友人から誘われただけだ。「非議会主義者にとって本願寺よりもっと皮肉な仕事でった」という。

 そのころの議員風俗といえば和服が多く、紋付、仙台平にゴム靴(革製だが、足首をゴムで締めるようになっていたのでそういったのだ)、その紳士用靴がハイカラだった。廊下で羽織の腕をまくって喧嘩する勇ましいものもいた。只今到着というところを只今着炭と電報して「着炭居士」で通っていたとかいう鉱山師の議員もおり、私たちの庶務課へきて「このごろよく工業のボッコウというが、ボッコウってどういうことかね?」といった紳士靴もいた。

 まあ、この仕事も「とんでもない所にとんでもない奴が紛れ込んだ」ということで首になるのだが。
 また、古田大次郎の遺書の話。

 近藤憲二が労働新聞に引用したのは部分ではなく、その時点で近藤らが受け取っていたのはそれが全部だった。教誨師(教務主任)の坊主の弟子が、師の遺品整理をしていて出てきて、二十数年ぶりに全文がわかったとのこと。なるほど、そうだったか。
 あとはなんだろうね、コズロフという人の話も回想に出てくる。いまいち正体不明だが、ユダヤ人でロシア系のアメリカ人だったとか。ロシア革命ユダヤ人の関係とか、まあいろいろ考えてしまうが、そんな人が大杉らのグループにいて、一緒にリヤカーひいたりしていたというのも興味深い。
 あまり興味がないあたりではあるけれども、アナーキスト運動の組織関係とか、そのあたりにも触れている。興味のある人には一級の資料やもしらん。

 だが、昭和二年の末にいたり、連盟加盟の黒旗社同人がアナーキズム運動に批判的であるとの声が連盟の一部にあり、これを左翼共産主義であると排撃し、黒旗社の機関紙『反政党新聞』をボイコットするに至った。発会当時の「銀座事件」以来私のが心配していたことが、今度は内部に向かって新しくはじまったのである。外の一部ではこの排撃は妥当ではないとして、連盟の足なみに乱れを見せはじめた。その間、しばしば暴力沙汰もあった。
 一般の暴力沙汰もそうであるが、ことに内部的な暴力沙汰は深刻である。風は波を呼び、波は嵐を生じて、停止することを知らないものだ。黒旗社問題にしても、十分話し合いをしないうちに、いきなり暴力をふるうようなことは、いやしくもわれわれのとるべき態度でないと思った。

 アナーキズム内ゲバと無縁でなく、人間の組織というものは結局のところろくなものにならない……という極端な個人主義虚無主義というのはおれの立場(まあイズムといえるほどの学も信念もなく、「予感」ていどのことだけど)だが、なんだかまあそういうことだよね、とか。
 一方で、やっぱり大杉栄の死で一つの可能性が失われたような思いもあるが、結局のところどうなったのかわからない。あとはそうだな、敗戦直後の話が印象に残ったかな。

……特高警察廃止、天皇批判の自由、婦人の解放、労働者の団結権、農地改革、旧円停止など、日本のいわゆる進歩的な人たちの中にも、つい錯覚をおこし、「われわれは自由になったのだから」とか「自由がきたのだから」とかよく書いた。しかしその文句には、「不自由」の「不」の字が脱字になっているのに気づかなかったのであろう。はたしてGHQ占領政策の地盤が固まるとともに、だんだん地金を出して資本主義政策を露骨にやりはじめ、われわれの『平民新聞』の検閲の上にもその傾向は歴然と現れはじめた。

 そして、米軍新聞班長インボーデンなる人物から呼び出しをくらい、横柄な態度で「お前、牢に入りたいのか」とぬかされたりする。

……癪だから私も幾度か見上げ見下ろし、「何がいいたいのかおれにはわからぬ」というと、
 「お前、プレス・コードがあることを知っているのか?」
 「知っている」
 「知っていてなぜ違反するか」
 「してない」
 「してるじゃないか」
 というわけで睨み合いになり、そのうち彼は顎をしゃくって「ジャップ・ゴー・ホーム」の格好をしたので、帰った。
 私は、以前日本の検閲へ呼び出され、幾度かお目玉を食らったことがあるが、日本でもこれほど訳がわからず、これほど無茶な無礼はいわなかった。それにくらべて、占領軍はいかにも征服者としての態度が露骨で、動物的である。自由が来たもヘチマもあるものかと思った。

 大日本帝国に同志、友人を殺され、自らも危険な目にあってきた近藤がここまで言うのだから、なんというか余程ものだったかと思う。占領軍にとっては右翼も赤もアナーキストも厄介な存在に他ならないものであったに違いないし、その姿勢たるややはり余程のことかと、まああらためて感じ入りはする。
 と、まあこんなところで。で、この本からさらに読み進めたいのは山鹿泰治と、なんといっても石川三四郎か。まあそんなところで。