……まず競馬をやる連中だ、そうだろう?……ありゃ自分からひどい目に遭いに行く連中さ!……死ななきゃ癒らない連中だ!
『夜の果てへの旅』を読んでからずいぶん経った。『夜の果て』を読み終えてすぐにこっちを読み始めたが、よくわからねえ理由があったのか……それともなかったのか、どうも興が乗らなくて、いったん書庫にお帰りいただいた。そんでまた、理由があるのかないのかわからねえが、急にセリーヌが読みたくなり、読み始めた。そして、読み終えた。おれは『夜の果て』を読んだときから一歳だか二歳だか年を食った。
その年にはセーヌが凍った。おれはその五月に生まれた。おれが春だった。運命だかなんだか知らないが、年をとってゆくのは、自分の生きているまわりで、家々や、番地や、地下鉄や、髪型なんかが変わってくのを見るのは、やり切れないことだ。短いドレスだろうとてっぺんの凹んだ帽子だろうと、おんなじことさ、チンチン電車だろうと、飛行機が出て来ようと、お構いなしさ! みんななんだって飛びついてゆく。おれはもう変わりたくない。文句を言いたいことはいっぱいあるけど、おれはそういうことのすべてと結婚してるんだ、おれはみじめな人間だが、それでも汚れたセーヌ河とおんなじようにおれは自分が大好きだ。十二番地の角の吊鐘型の常夜燈がなくなるときは、ずいぶん悲しいこったろう。そりゃ人生、かりそめさ、そりゃあそうだが、それにしてももうみんないい加減かりそめちまってるじゃないか。
原題は『Mort à credit』。解説によると「à credit」は信用買い、クレジットのことだと。「どなたの訳か不明のまま、すでに定着した名訳なので、そのまま踏襲させていただいた」と訳者。よくわからねえけど、そういうこともあるもんなのか。
ほんとうは彼は心のある人だったんだ。ぼくだって心があった。人生は心なんかじゃどうにもならない。
クレジットの死。何回払いか。今どきならリボ払いでおれたちは死を買いつづけているのか。あるいはリボ払いの人生を生きているのか。そんなイメージがおれのなかではしっくりくる。そしてそいつは……たしかに「なしくずし」じゃないの。
ベルロープの店を追ん出されてから、ぼくはその上さらにぼくだけの、もう二度と浮き上がれないんじゃあるまいかという不安を背負いこんだ……ぼくは貧乏人を、失業者を、ここでも、世界の隅々でも、乞食寸前という人たちを、ゴマンと知っている……連中は何をやってもうまくいかなかったのだ!
なしくずしの感想文だ。あらすじ? 貧乏医師にして作家のフェルディナンが自分の生い立ちを語るんだ。真面目だが強圧的でしかも弱い父、それに共依存するような働き者の母、まるで精神臨床のステロタイプみてえな家族。そして、うまくいかない若いフェルディナンの就職。このあたりは、就活とかやってる現代日本の若者と似たりよったりか、おれは履歴書を書いたことがないような、もっとなしくずしの生き方しかしてきてないのでわからないが。
仕事ってやつはどれもこれもほんとに身の毛がよだつほど嫌いだ。どうしてあれこれ区別することがある?
まったく。
……自分の経験から分かったのだ……おれはやっぱり能なしの役立たずなんだ……おれの中にはロクでなしの芽しかないんだ……ほんとにおれはノラクラの怠け者なんだ……父たちの善意におれは値しない……悲惨な数々の犠牲……そんなにしてもらう値打ちはまったくないと思った……
……それにしても、いったい自分はどんな罪を犯したんだろうという考えがぼくを苦しめるのに変わりはなかった。なんかぼくが罪人でなきゃならないわけがあるんだろうか、なんか特別なわけが?……そんな原因を考えてみることができるほどの教育はぼくにはなかった……
学習性無力感? よくわかんねえけど、三十も半ばのおれが感情移入せずにおられないのは若きフェルディナン。無力感と罪悪感、半分くらいの精神年齢生きてんだおれは。フェルディナンが出会ったデ・ペレールみてえなマスター……ろくでなしの山師にしたって……そんな出会もねえし……。それにしたって生かされているのは確かなんだろうが……。
……ああ! それにしてもおそろしいこった。若い若いと思ってたって、気がついたときにはもうこのざまだ……途中でどれほどの連中を見失っちまうんだろう……どれほどの相棒に会えなくなっちまうんだろう……二度とふたたび……夢みたいに消えちまうんだ……おしまいになっちまうんだ……ドロン、てなもんだ……自分もやっぱり消えちまうんだ……いつか、そりゃまだ遠い先の話じゃあるけど……でもどうしたって消えちまうんだ……奔流に呑まれて、世の中の……人びとの、歳月の……形あるものの……みんな過ぎ去って行くんだ……決して止まるもんじゃないんだ……間抜けも、乞食も、野次馬も、淫売たち、眼鏡をかけたのや、こうもりを持ったのや、紐の先に子犬を連れているのや、アーケードの下を歩いてる女たちも……みんな、もう二度と会えやしないんだ……それ、もう行っちまう……あいつらもみんな誰かのことを考えてるんだ……誰かとつながっているんだ……それもやがて終わっちまうんだ……まったく悲しいじゃないか……やりきれないじゃないか……
それにしてもデ・ペレール夫妻、この『なしくずしの死』の後半は彼らと過ごすことになるんだが、そいつも強烈な代物だぜ。この二人にしたって共依存だなんだと言えるかもしれねえが、そいつは野暮って気もするんだ。
ともかく、この『なしくずしの死』の中にはあらゆる汚いもんが、汚い人間が詰まってて、主人公もその親もどん詰まりで……まったく、おれはおれの人生を、生活を顧みる……というか直視するような気になったんだ。そいつはすげえ怖いことだが、それでも世界はこのようなもんなんだっていう、大きな悲しみがあって……読むに値するってもんじゃないか、そういうのは。
インタビューでセリーヌはこう語ったと解説にある。
「私の本がどうだって言うんだ。あれは文学の本じゃない。じゃあ何かって? あれは人生の本さ、ありのままの姿の人生の本さ。人間の貧困が私を圧倒するんだ。物質の貧困だろうと、精神の貧困だろうと。そりゃ、貧困はいつの時代にだってあった。だが昔は人間はそいつを神に捧げた。どんな神であろうと。今世界には数え切れないほどの貧乏人がいるけど、彼らの悲しみはどこへも行き場がないんだ。現代は、そもそもどうしようもない悲惨の時代なんだ。哀れなことだ。人間は何もかも、自分に対する信念さえも剥ぎ取られて、真っ裸なんだ。(……)文学なんぞ、人びとをへしつけている貧困の前ではどうでも良いことさ。連中はみんな憎み合ってるいるんだ……連中が愛し合うことさえできたら!
まったくじゃないの。実際のセリーヌが貧困の中で育ったわけじゃねえこととか、そんなことは関係ねえんだ。ああ、感じやすすぎるセリーヌ。あんたは優しすぎる。おれも、なんだかんだいって、優しすぎるかもしれねえんだ。信じてくれなくたっていいけどよ。そんな人間にとって、この世は苦しすぎる、醜すぎる、言っちまうとそんなことになっちまう。
最高にみすぼらしいサンドイッチマンだってそうだった……それぞれ何か立派なエピソードを抱えていて、それについちゃあ笑ったりしちゃならなかった……こうした物語が連中を犯罪にまで追いつめることは、アルコールよりもずっとひどかった……それでもやっぱりホラを吹くんだった! 想像もできない連中だった……ぼくはだんだんと、彼らの中に自分の姿を見るようになっていった……
おれにもなにか立派なエピソードがあるかもしれねえ。なにか、物語が。そうやってここそこでホラを吹いてるんだ。身の回りに話せる人間なんていねえから、こうやってさ……なにか共感できるやつがいるんじゃねえかって思って……。
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