ブルースクリーン4

f:id:goldhead:20150121125619g:plain

もうそろそろ死ぬおれが見ているこの光景というのは、おれがこの世でさいごに見る光景ということになる。世の中の大半の人々はそれなりの社会の居場所を得て、それなりの収入を得て、それなりの人生を生きていく。海外で起きた事件とも縁遠く、国内の政治のことについてもそれほど関心があるわけでもない。明日の寒さを気にしながら、ウメが開花しただとか、そんなニュースに耳を傾ける。おれの目には入ってこない富裕層は新しい季節を迎えてどこに旅に出ようとか、あたらしい服を買おうとかウキウキしているかもしれない。

もうそろそろ死ぬおれにとってはなにもかもどうでもいいことだ。良くもなければ悪くもない。関心があるわけでもないが、ないわけでもない。どうでもいいということは、無関心ともまたべつのことだ。だが、もうどうでもいいのだ。もうおれひとりの力ではこの社会どころかおれひとりの生活を維持することもむつかしくなるのだろうし、見知らぬ他人に頭を下げて働き場を得るようなことも想像しがたい。おれはもうなにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。

おれはもうなにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。なにもしたくない。

さつまいもに酢醤油があるのかどうかという話をする。これが、合うのである。はじめてそのような組み合わせを食ったのは、大戸屋だった。季節限定蒸し野菜のなんたらを頼んだら、野菜の中にさつまいもが一切れ入っていたのだ。やや奇異に思いながら、ポン酢のようなつけダレにつけて食ったら、さつまいもの甘味とたれの酸味が悪くない相性だった。おれはおれの餌である蒸し野菜にさつまいもを入れるようになったのはその影響である。

クソアニメの話をする。今期はクソアニメ呼ばわりされる作品が4つほどあったが、5つかもしれないという話になっている。なにかと話題の『艦これ』なんかは入らない。おれは原則として最低でも2話か3話は観ることにしているのだが、なるほどクソだなと思う。だがしかし、それらはおれが苦手とするジャンルに当てはまるようなものであって、果たしておれがそういう雰囲気を嫌ってクソだなと思うのか、実際にアニメとして、それを構成するいろいろの要素がクソなのか判断つきかねる。

凄い空の高いところから、鋭角的な飛行機が落下してくる。飛行機の中では肉を食う会が開かれていた。肉の食べ放題だ。おれは肉がたくさん食べたい。死刑のまえの最後の食事をなににするかと言われたら、どこかの宅配ピザ屋のピザと答えるのが常であったが(もっとも、そんな質問は自問自答でしかしたことがないが)、今はなにか無性に肉が食いたい。分厚いステーキというのではなく、焼肉とかすき焼きくらいの薄さの肉でいい。ああ、肉と言っていたが、おれは牛肉のことを言っていいる。でも、ラムでもマトンでもいいかもしれない。まあ、豚でもいいか。鶏のいろいろの部品も好きだが、今のおれはスライスされた肉を腹いっぱい食いたい。

流線型の海底戦車がものすごいスピードで海岸沿いの原発に向かって直進してくる。その中では焼肉パーティが行われていた。肉は食べ放題、アルコール飲み放題は別途だ。肉が食いたいと思ったとき、たらふく肉が食えるという選択肢を持つ層がいる。そういう連中はそうするだろう。肉を食って、脳内にセロトニンかなにかをたくさん出して、ますます元気、やる気、いわきになるだろう。おれは肉をたらふく食うことができず、自ら好まず菜食主義者のようなことになっている。修行僧かなにかならいいのかもしれないが、おれは貧相な賃労働者であって、ますます貧相になるばかりだ。ますます発送も貧相になって、身体も貧相になって、ますます脳内のセロトニンは減り、自らの蓄えも食い扶持もすべて失うのだ。

ものすごい勢いでタラントンを増やしていくやつがいる一方で、タラントンを維持するところか失ってしまったおれは鞭打たれて野に放たれる。とぼとぼと道を歩いていると、おあつらえ向きの木が生えていて、おあつらえ向きの縄が落ちている。木の下にバーベキューの跡がある。肉はたくさん、ぬるいビールもご愛嬌。そんな残滓を目にしながら、おれは風に揺れるのだ。いや、おれがおれを揺らしているのか? 風非幡、非畢竟浄!