爆弾が落っこちるとき

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電柱の下にワイヤーハンガーが何個も落ちていて、電柱の下にワイヤーハンガーをたくさん置くおじさんでも来たのかと思ったら、電気の職人が上でゴミ掃除のようなことをしていた。小枝のようなものも落ちていた。職人が降りてきてゴミを袋に入れて立ち去ると、すぐに一羽のカラスがその電柱に飛んできて、「カァ! カァ! カァ!」としばらく大声でないていた。

カラスの連中というのは頭がいいからエサを食うのにそんな時間がかからず、ほかの鳥どもとちがって遊戯すらするという。ひょっとするとあのカラスは自分のアート、あるいは前衛的な巣が破壊されたことに抗議していたのかもしれない。それにしたって、カラスは食っていればあとは遊んでいていいのだから優雅なものだ。人間がまだ手にしていないものを手に入れている。ひょっとしたら、人間よりカラスの方が高等なんじゃないかと思える。空も飛べるし。

空を飛べないおれはずったらずったら薄汚れた歩道をいく。空を見上げることもある。爆弾がおっこちてくるのかな? などと思う。阪神大震災は遠い西の出来事だった。地下鉄サリンは範囲が狭かった。9.11は海の向こうだし、3.11にはけっこう驚いたが、本当にたいへんな場所からは離れていた。いろいろの事件や事故があって、その背景やら経過やら結果やらを知ったところで、知っただけのことだ。臓腑に響くようなたいへんな体験かと言われると、「そうだ」とはとても言えない。

そしてまたなにやらきな臭くなってきた朝鮮半島情勢。ある人はなにも起こらないだろうというし、事態が進行して米中開戦がありうるという人もいる。日本に影響なんてないだろうという人もいれば、ミサイルが飛んできたり工作員が躍動するという人もいる。結局のところ、なんにもわかりはしない。トランプだって、明日の自分のことがわかっているかどうか怪しい。北の黒電話(というスラングを最近知った)にしたって同じだ。おれにしたって同じだ。人間、明日の自分のことだってわかってるかどうか怪しい。それが他人を斟酌したり、だれかを忖度したりしたところで、わからなさは増すばかりだ。

とはいえ、人類、冷戦という形の戦争で、第三次世界大戦は起こさなかった。いろいろな戦争は起きていたが、世界大戦にはならなかった。そういう実績はある。とはいえ、戦争は起きてきた。虐殺もあった。そして、今度のことは世界のどこかではなく、この日本が舞台になってもおかしくないことだ。ただ、その危険度というものが頭でも胸でもわからない。この間の「在日米軍基地を攻撃するための訓練だ」という北の発表なんて、もうそうとうに一線をこえすぎているように思うのだが、そもそもどこが一線なのかもわからなくなっている。

爆弾がおっこちるとき、すべての自由が死ぬ。それは落とされて死んでしまう人ばかりでない。空で爆撃機を操縦していたやつも、爆弾を落とすボタンを押すやつも、また自由を奪われるのだ。そんなおろかしい人間どもの、人っ子ひひとりいなくなった廃墟に、カラスたちが飛んできて彼らなりの人間という生き物を記念するモニュメントを建ててくれるかもしれない。地球はカラスに託そう。カラスと和解せよ、人類。