大きいカタツムリがゆっくり這いまわっておりまして

ええ、それはもう大きなカタツムリでして、「おや、大きいな」というくらいではとてもじゃないが存在できないものでして、できるだけ正確に御紹介するならば、わたしと同じ大きさのカタツムリがわたしを覆うように這いまわっておるということでありまして、すなわち私が這いまわっておるとカタツムリもついてくる、カタツムリが這いまわっているのは私が立ったり座ったり歩いたりするすべてについて言えることなのです。

おまけにこのカタツムリの這いまわるのは体についてばかりでなく、思考や感情にも大きなカタツムリが這いまわりまして、なんといいますか、粘膜というようなものが世界とわたしの間に幕を下ろしておりまして、体を動かすのがカタツムリの速度だとすれば、頭で感じること考えることもカタツムリの速度でございまして、ようするにポンコツがよりいっそうのポンコツになって超遅い速度で、スタッカートの反対語をわたしは知らないのですが、ぬたっとした思考は粘液のようなもので曇る、曇るばかりで、はて、わたしはなにをしていたのでしょうかというありさまでございます。

体に立てと命じて立つのに時間がかかり、これが高度な動き、たとえばシャワーを浴びる、ヒゲを剃る、着替えをするなどというとえらく時間がかかり、カタツムリは這いまわるばかりでありまして、這いまわるのはわたしの体と同じ大きさの私でありまして、頭の方で歩かなくてはいけないなどと客観的に考えたところで体はノタノタ、メタメタのノロノロでありまして、やがては考えることもなにもなく、目も自然に閉じていくような気持ちになる、大きなカタツムリがゆっくりと這いまわっておりまして。

やらなくてはならない仕事がそこにある、これこれ指示された、指示されたことも理解はできる、理解はできるが、取り掛かれという命令に体が反しまして大きなカタツムリがのたのたズルリと這ったり、椅子から滑り落ちたりするばかりで、焦燥感のようなものも膜の一枚向こう側のようなものでありまして、ああ、いっそうポンコツの役立たずになってしまい、これは年度末の忙しさからくる疲労の来るところまで来たところであるとは思うのですが、行くところまで行ったのかというとまだ行ききっていないというところでもありまして、これは確実に脳なり体なりがSOSを出しているなというのはわかるのですが、そのSOSをどこへ伝えていいのかわからず、おそらくセロトニンかなにかが足りていないのでしょうが、セロトニンをどうにかする薬は処方されておらず、抗精神病薬の処方を増やされたところで大きなカタツムリの側につくようなやつで、この時点ではうまく働いていないのであります。

わたしは大きなカタツムリのようにゆっくりゆっくり動かざるをえず、貧乏なので休むこともかなわず、働かざるをえず、今必要なのはシャブじゃないのか、しかし、シャブを買う金もないのも現実でありまして、自分が自殺することについて否定的ではないということをもって、いつだったか個人輸入したセロトニンをどうにかする食べ物を食べてみようかどうか、このまま大きいカタツムリが這いまわるままでは仕事もままならず、今必要なのはシャブではないかと言うのは簡単ですが、シャブを買う伝手も金もないわけでございまして、そんなものを必要とせずとも、一週間、いや、三日、三日でいいから休みたい、休めば大きい這いずるカタツムリ野郎もどこかに行ってしまうという確信もあるのですが、三日、三日でいいから休めないのも現実であって、大きいカタツムリが這いまわるわたしのような負傷兵でも兵隊の数が必要な零細企業は、臨時であれなんであれ補充兵は望めず、今必要なのはシャブではないか、というこのSOSも、会社に金がないので却下ということ他ならず、大きい這いずりはなかなかその終焉を迎えない、こんな人生になにがあるのか。今、必要なのはシャブか休養。