深夜の電撃的邂逅

もう何年も前の話になる。ひょっとすると十年くらい前の話かもしれない。

深夜零時を回るか回らないか、仕事を終えたおれは寿町近くで一人信号待ちをしていた。そこに入ってきたのだ、一人の女が。

「そこ」とはどこか。理屈も法律も、友達も家族も彼女も入れないところだ。ATフィールドの内側と言ってもいいかもしれない。ともかく、おれの内心かなにかを形作っていると考えているところ。「そこ」にだ。

その女はどんな方法でおれの心の内側に入ってきたのか。ただ、同じく信号待ちをしようと近づいてきただけだ。べつにおれに対して視線を向けるでもなければ、話しかけるでもない。ただ近づいてきただけだ。異様なほど近づいてきたわけでもない。見知らぬ人間同士の常識的な距離だ。とくにそんな深夜では。

女の外見にとくに惹かれたという話でもない。とくに見栄えするでもない普通の勤め人らしい格好の、普通の女性だった。外見的なところに、その顔に、服装に、なにかを感じたわけでもなかった。

おれは呆気にとられた。動揺した。完全に「入られた」と感じたからだ。生まれてこの方、そんな気持ちになったことはなかった。ああ、この女に心の内側に侵入されてしまった。その上、なにか分かり合えたような気になった。一身になってしまったような気になった。おれはこの女のことがわかるだろうし、この女はおれのことがわかるに違いないという確信があった。わけがわからなかった。

信号が変わった。おれは歩き出した。女も歩き出した。おれが先だったか、女が先だったか、思い出せない。おれは大変な動揺と気味悪さと、相反するような言いようのない安心とも言えるような心持ちで歩いた。話しかけようかとすら思ったが、そうしたらすべてダメになるような気がした。いや、そもそもそんな深夜に女性に声掛ける事案を引き起こす勇気なんてなかったが。

しばらくすると、交差点で女は右に行った(ということは、おれは後ろを歩いていたのだろうか)。おれの家は直進する先にあった。おれは直進した。一人で夜道を歩きながら、しばらくのあいだ動揺を抑えるのに必死だった。おれの心にするりと入り込んできた、あの女はなんだったのだろうか? 入り込まれたと感じたおれの心の仕組みとはなんだったのだろうか? もしもおれがあの女に話しかけていたら、なにかが始まったのだろうか? なにかが終わったのだろうか?

おれはいまだにあの衝撃を忘れていない。忘れることはできない。女の細かな風采もすっかり忘れてしまったし、あの日が夏なのか冬なのかも覚えていない。ただ、あのとき感じた、おれはこの女のことがなんでもわかるだろうし、逆におれの心のすべてはこの女にわかってしまうだろうという感じ、そればかりは忘れようがない。ただ、仕事に疲れていて、疲弊した脳が生み出した錯覚にすぎなかったのかもしれない。だとしても、あれはいまのところ生涯で一度の体験だった。この先おれにそれがまた起こるかどうか、想像のしようもない。