「これは正しい運動だから、みんなもそれに付き従ってほしい」

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これは正しい運動だから、みんなもそれに付き従ってほしい。そんな立場に立つことがあるかもしれない。ところが、みんなはその立場に立った人間の過去の過ちや、言動の矛盾を指摘するかもしれない。指摘された方は、今、それはいいから、この正しい運動を推し進めるのに協力してほしいと思う。それを表明する。さらに反発を買う。

どこに問題があるのか。おれにはどうも「みんな」にあるように思う。え、みんな悪いの? 違う。この運動を主導する自分たちとは違う、大衆であり、有象無象であり、頭数でしかないように「みんな」を扱ってしまう態度にある。そう見えてしまう言葉にある。

人それぞれ、ゆずれない線というものもある。あるいは、たとえばネット上でハンドルを使った半匿名の無名の人だって、一人一人てめえのアイデンティティを背負っている。そこを軽んじられたら、余計な反発すら買いかねない。強い人にはそれが見えない。あるいは、それが原因でいろいろのハラスメントが社会に存在してしまっているのかもしれない。

どこかに落とし所はないのか。はっきりと「ある」わけではないと思う。100を0にはできない。でも75にしたり50にしたり、うまくいけば25にする方法はあるんじゃないかと思う。それは自らの弱いところ、フラジャイルなところ、あるいは情けないところ、しょうもないところ、あやしいところをあらかじめ「正しいこと」と一緒に明言することだ。それについて詫たりしてもいいかもしれない。

傍観者の「ぼくのかんがえたさいきょうの方法論」ごっこ、かもしれない。おれはここで自分の身を切るような話をしちゃいない。余計なこと、かもしれない。でも、おれにはずっとこのようなことを考えている。だから、ついつい口出ししてしまう。

魂の落としどころがどっかにあるはずなんだ、たぶん - 関内関外日記(跡地)

 でもさ、人類の人種も文化もなしにさ、どっかしら人間同士の落としどころみてえなもんはあると思うよ、俺はそう思う。そう妄想する、そう希望する。

 で、それはなにかっていうと、愛、だとか、正義、だとか、思想、だとか、あるいは科学、とかでもなしに、もっとろくでもないもの、人間の弱さ、卑怯さ、怠惰、汚さ、ずるがしこさ、いい加減さ、そんなもんじゃねえのかって。強さより弱さ、正しさより間違い、美しさより醜さ、そっちで手を繋げるんじゃねえかって妄想だ。そこが落としどころじゃねえのって。俺はそんな夢を見る、「おたがいに、おたがいが寒いから犯した過ち、暑いから犯した過ちの共犯者になって、にやりと笑って、シリアスな殺し合いなんかしなくなる」、そんな感じだ。