ほんとにいたのかハクビシン


 今のアパートに引っ越してしばらくのつぶやき。四部屋あるアパートのうち、おれが入って一階の二部屋が埋まり、上の二部屋は空き部屋だった。そこから、上のような音が聞こえていたのだ。
 さいきんじゃ繁華街ばかりじゃなく、住宅街にもドブネズミが増えてる横浜はじまったな、という話はある。だが、おれはそれ以前に見かけたハクビシン、電線から空き家にスルスルと入っていった、あんなやつらじゃないかと、まあそんなふうに思ったわけだ。

 それからしばらく……いつだったろうか、夏の始まるまえくらいだったか、二階の一部屋に一人引っ越してきた。わざわざ引っ越しの挨拶というやつをしてくれた、自分より年長の男性である。そのあと、一度だけアパートの近くの路地ですれ違い、向こうが挨拶するのにおれが怪訝な表情をするので(おれは人の顔が覚えられない)、人差し指一本立てて上の階の人間だよってジェスチュアしてくれたりと、まあそのていどのつきあいだった。
 その男が、休みの日にドアをノックして訪ねてきた。「なにか上から物音がしませんか?」という。はじめ、自分が出した生活音が下の階のおれの迷惑になっていないのか病的な警戒心で尋ねてきたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。なにか動物の歩いたり、鳴いたりするような音がするという。
 あっ、と思った。なぜなら、おれはしばらく、そう、考えてみたらこの男が引っ越してきてからその音をあまり聞いていなかったからだ。カリカリ、トタトタ、カサコソ……。
 「ああ、ネズミが屋根裏にいるみたいな?」とおれ。
 「いや、もっと大きい感じなんですよ」と男。
 「それじゃあ、ハクビシンかもしれないですね。このアパートじゃないですけど、電線つたって空き家に入ってくのみたことありますから」とおれ。
 「ハクビシンって、どのくらいの大きさですか?」と男。
 「このくらいですかね」と、おれはネズミより大きく、成猫より小さいくらいの大きさを手で表現した。
 男によると、あまりに音がうるさく、犬ほどではないが、なにか吠えるような鳴き声まで聞こえ、隣の部屋の壁をガリガリやるような音まで聞こえるという。不動産屋へ連絡もしたが、一応べつの住人の話を聞いておきたかったみたいだった。
 と、ここでおれは一つ、なにか動物が住み着いているんじゃないかという件についての傍証をもうひとつ持っていることを白状せねばならない。いや、恥ずかしくて男にも言えず、不動産屋にも言えず、日記にも記せなかったが、おれはこの夏、ノミの発生に悩んでいたのだ。部屋をきちんと掃除機で掃除し、バルサンも焚き、ネットで調べた日本酒(もちろん一番安い粗悪なやつだ)と洗剤のトラップも仕掛け(こいつはなかなかのものだった)、それでもぜんぜん殲滅できないのだ。
 もちろん、おれは実家で猫を飼っていて、ノミというものを知っている。べつの害虫と間違えるはずもない。そして、おれはそいつらを器用につまんで潰して殺す技も持っていて、そんなコンテストがあったら横浜市中区で8位くらいになる自信はある(まあ、潰したら卵が飛び散るので推奨できないが)。ともかく、ノミはそれなりによく知ってるやつらだ。
 ただ、おれはペットを飼っていないし、その発生源が謎だった。近所に犬を飼っている家もあるし、車の入ってこられぬ住宅密集地ゆえに外猫もすくなくない。ただ、その程度のものをたまたま足に拾って持ちこんだところで、ここまで続くだろうか。かといって、隣の住人がペットを飼っている気配もない(というか、住んでいる気配すらあまりない)。どこから送り込まれてくるのだ、こいつらは。
 ちなみに、ノミの痒みには普通のムヒじゃだめだ。プレドニゾロン吉草酸エステル酢酸エステル(PVA)……アンテドラッグ、マイルドなステロイド入りのやつが効果覿面だ。その成分さえ入っていれば、銘柄はとわない。
 ……男の訪ねてきた次の日、ガラガラと雨戸を開け閉めする音が聞こえてきたが、それがこのアパートのものかどうかわからなかった。ただ、不動産屋とてもう一部屋を埋めたいだろうし、上の男に逃げられても困るだろう。ハクビシンなりタイワンリスなり(リスの鳴き声というのはかわいいものじゃないので、その可能性もあろう)なんなりは、専門の業者か、あるいは殺鼠剤かなにかによって駆除されるには違いない。
 人間の住むところに住むというのはそういうもので、おれとて家賃を納められなくなったら同じ目に遭う。おれは駆除されたらどうなるのだろうか。まあ、よくわからないが、甘んじて受け入れねばならない。毒ガス、殺鼠剤、金属バット、あるいはカレーにして煮られる。願はくは、できるだけ手際よくやってくれ。ボディがきれいに透明になったら、そこらの空き家にスクウォットしてやろうと思ってるんだ。きっとだれにも気づかれたりしないさ、静かに、ただ静かに暮らすつもりだから……。