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老賢者にITは鬼に金棒であります

 パソコンやネットが使えなければ老害、みたいな考え方が、まあ過半数の意見と言えないにせよ、少なからずあるわけであります。そして、その中高年がいつまでも大企業なり役所なり、まあなんでもいいから上のほうに居座っていて、若者の力が発揮されない、あるいは所得を得られない、などという話もあるでしょう。そこから、起業しなければメンヘル老害を蹴散らせみたいな極端なことを言う人だっているわけであります。
 しかし、ですよ。まあ、老いて、といってはなんですけれども、まあ公平に見て若くないのに、きちんとパソコンをつかえる中高年というのは、そんなに居ないものなのでしょうかね。むしろ、私の見る零細の小さい世界には、自らの専門分野に加え、ああだこうだ文句言いながらも十分対応していらっしゃる方が少なくない。そうなると、これはなんでしょうね、心身健康で豊富な知識があり、なおかつ新しい技術に対応している。肉体的な老いをIT技術がカバーしているといっていいわけであります。むろん、分野やなにかにもより大違いなのは承知なのですが、こっちから見ていて鬼に金棒というように見えてしまう。まあ、もちろん、鬼になる気もない、ひきこもりの成れの果てである私の目から見て、なのですけれども。
 しかしですね、私は、このITというものがですね、まあバブルだのなんだのと言われはしましたが、まあもてはやされてきたときにですね、若い人のチャンスなのかどうか、と、こう思ったわけです。いや、実際にそれによって巨万の富や名声を築いた若者は次々に出てきている。しかし、そんなのは一握りの人間とその周辺です。高級時計巻いててるはてなの社員みたいなのは、高級な一握りといっていい。そして、その他大勢と思われるボンクラにとって、あるいはIT技術そのものが生業でない世界の、上の世代というものは、まあ医療の進歩などもありますが、老いというもののハンデを技術が補うと、補って余りあると、そのような見方もできるんじゃないかと思ったわけであります。

ファミコン世代の意地というものもあります

 とはいえ、しかしですよ、やはりこちらもファミコンの登場とともに物心ついた世代の人間だし、やはりデジタル勘、まあ土地勘みたいなものは持っているぜと、せめてそのくらいの何かはあると思いたいわけですね。まあ実際、なんだかんだ言って私くらいでも、それなりにデジタルの当て勘があるんじゃないかと思うような、そういう瞬間とかはいくらかあるわけです。ネットの海もいくらか自由に潜って情報を漁る自信もある。ただし、SNSは勘弁な、と。
 その一例が、まあいま流行りのエバンゲリオンみたいなタイトルみたいなことじゃないかと。まあ、たとえば、なにかをデジタルで加工したり制作する作業で、どういう機能を使ってどんな手順でやるかみたいな話になりまして、「ちょっと教えてくれ」みたいなことになるわけです。そこで、彼らの戸惑いといいますか、迷いといいますか、そういったところによく感じるのが、上の3つということですね。その3つの連携と言いますかね。
 まず、素材なり途中過程なりがあるとすれば、そいつはデジタル・データだから簡単にコピーできるんだ、複製できるんだ、まったく同じファイルを、あるいはレイヤーを、シートを一発で作っておけるんだ、と。それでベースキャンプだか足場だかわからないが、とりあえず帰れる場所を作ると。ポイント・オブ・ノーリターンってのは無くせるんだ、と。
 次に、なにか作動させてみたり、加工してみたりしても、そいつがデジタル・データで、まあだいたいのアプリケーションなら、CommandなりControlなりとZを一緒に押せばすぐに取り消せるわけです。
 それがダメなら、またやり直せばいい。それは一つ戻ったところからかもわからないし、最初に作っておいた足場かもしれないけれども、まあそれを試してだめなら、こっちやる、順序をかえる、ともかく、GIGOだろうとなんだろうと、入れてみれば反応する、それ見る、それを繰り返せる、そういうわけです。すなわち、ちょっと考えてみたり、人に聞く暇があったら、頭の中に思い浮かぶありったけの一歩目を試し、樹形図を想像して、下手な豆鉄砲撃ちまくれば一発くらいは鬼に当たるんじゃないですか、と。考える前に手を動かせ、何発でも試せ。戻れる場所を何段階も確保しておけ……。
 と、まあ、これはなんといいますか、パソコンはじめて講座にも載っているような、デジタルの初歩の初歩でしょう。2012年末にする話じゃないかもしれない。まあ、言葉にしやすい手順といいますか、技法といいますか、そういうものです。
 ちなみに、私が私のことをそれなりにデジタルの世代だと感じるのは、初めて見るような局面でも推量の一歩一歩が正解で、一気に樹形図の中の正しいルートを選べてしまうという、あの快感なのですが。まあしかし、いずれにせよ、そんなのは、いいですか? 世紀の大発見でも革新的ななにかでもなく、日々の業務のなかの細かななにかにすぎないわけです。ただ、これを瞬時に思い浮かべられるか、行えるかというか、その前提があるかないかというあたりに、やはりなんといいますか、世代差のようなものは感じるわけです。むろん、半径5mの話でありまして、年齢の問題でないのかもしれませんが。

血肉の世界は圧倒的ではありますが

 しかし、まあ、このコピー、復元、再試行ですか、もちろん、デジタルの……よくわからないが、ひょっとするとデジタルでも一分野の話かもしれません。そして、デジタルでない世界、あるいはいまだ圧倒的なマティリアルの世界、ビットではなくアトムの世界にはまったく通用しないわけです。医師は手術前に患者をコピーしておけないし、播いた種が商品になる野菜に育たなかったからといって、即座に半年なら半年の施肥をやり直せるわけでもない。機械の加工や冶金、土木、わかりませんが、デジタルじゃないところで、例に上げた話なんてちゃんちゃらおかしいわけです。
 が、かといって医師も農家もなにも、もはやITとは無縁じゃいられない。いられなくなる。あるいは、仕事で全く使わなくたって、日常でスマートフォーンを使うということもあるでしょうし、まあ、家電といいますか、写真機にしたっておおよそデジタルということになる。
 そんななかで、たとえばこの3点でもなんでもいいですが、デジタルの特質というものが、人間の考え方ややり方といったものに、どう影響するかという、そこのところはなにかしらあると思います。
 むろん、余程の変化、サイエンス・フィクション的な、たとえば電脳化ですとか、全身の義体化ですとか、そういうことになれば別ですが、だいたいもう人類とかいう器は……いつ頃に確定したかよく知りませんが、ネアンデルタール人とファックしてたちょっと後くらいくらいから変わっちゃいないだろうし、まあ吉本隆明の受け売りでいえば、人間の思想なんて西暦200年くらいには出揃っちゃってるんだぜ、とは思います。
 が、なにせ個々の人間が生きるせいぜい何十年の細かな差みたいなものはあるわけです。だから、ある画像データをトリミングして、というとき、思わず「デュープでもない貴重なポジフィルムをハサミで切ってトリミングしようとした奴がいた」なんていう昔の笑い話が思い浮かぶか、それとも即座にバックアップとっちまえば、あとはどう切り刻もうがいいんだと考えるか、そういう差はあるように思うわけです。
 では、果たしてその差といいますか、あるいはまあ私ももういい年齢なわけですけれども、そういう発想というものが脳みその根っこにこびりついていて、まあ人格というと大げさだが、デジタルとは関係ないところになにか影響があるのだろうか、と。ないわけはないんじゃないか、と。

デジタル幾星霜

 まあ、このあたり、極端な話になりますと、「バーチャルとリアルの区別がなく平気で人殺しができるゲーム脳の恐怖」みたいな発想にはなるわけですが、どうなんでしょうね、と。というか、現実問題、アメリカ軍などバーチャルで兵士を訓練し、人殺しさせやすいようにしているなんて話もあるわけですがね。まあ、いずれは無人機と例の犬が戦場の主役ではありましょうが。
 いや、話が逸れましたが、まあ結論もないで書いているのだから仕方ありません。だいたい、こう、人間、ものを書くにも文字制限がないとろくなものにはなりはしない。このあたりも、ブログとかいうこの面積を持たぬ白紙もどきのせいでもあるし、それに順応しているこちらの脳の話になるやもしれないわけですが。
 ただまあ、なんというか、これは非常に古い話題だったと言えましょう。しかし、だいたい50年から100年前の本ばかり読んでいる自分としては新しい話とも言える。そうだ、実はいま、手書きでしかありえなかった、そして編集者による校正の手も入りようがなかった、75年くらい前の……要するに2.26事件の刑死者たちの遺言状をまとめた本を読んでいるのですが、その内容とともに、やはり思考のエンジンの違いといったものも感じずにはおられない。かれらにはBack Spaceもなければコピペもなかった。ATOKGoogle日本語の助けも借りられなかったわけです。
 そうだ、要するに言葉の、文章の問題、そこのところなんですね、本当に気になるところは。いや、ずっと気にしてきたことでした。口伝から筆記、筆記からタイプライター、タイプライターからこのデジタルのテキストに。文章は、あるいは文学はどう変わってきたのか、変わっていくのか……。あるいは文章ばかりでない、映像やその他もろもろの、人間の表現というものですかね。たとえば、舞踏や歌唱にしたって、私は3Dの初音ミクが歌い踊るのをこの目で観たわけです。そんなきかいも増えていくことでしょう。というか、電子音楽がこの世に登場してから何年経っているかご存知でしょうか? 私は知りません。
 そしてさらにですよ、もう生まれた時にはiPhoneがあったという、そういう世代の人間が……今何歳なのかよくわかりませんが、いや、iPhoneじゃなくたっていいですけど、なんでしたっけ、デジタル・ネイティブの世代ですか、そういった世代は私の世代どころでないデジタル勘があるでしょう。実際、まだ一桁台の年齢の孫がiPhoneで勝手にアプリを落として遊んでいる、などという話を耳にしたりしていますしね。
 再度言いますが、人間というものの大元といいますか、この血肉というものはとうぶん変わらない……と、言っていられるかどうかも怪しいのですけれど、まあ千年、二千年、あるいは百年前の人間から学ぶことも多いだろうが、同時代の表現というものはどうなっていくやらと。とうぜん私に、人類のこの先を終わりまで見届けることなどできないわけで、それよりも年を越せるのかどうかが重要なわけでして、こう夜更かしもしておられず、ひとまず筆を擱きましょう。どこに筆があるって? あなたにはお見えにならないのか?

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