E.M.シオラン『歴史とユートピア』を読む

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 地上楽園の信奉者たちと私との不和の、その深い理由を指摘せねばならぬとしたら、私は次のように明言しよう。すなわち、人間の抱く一切の企図が、遅かれ早かれ人間自身に刃を向けることになる以上は、理想的な社会形態を追求してもむだなことだ、と。人間の行為は、たとえ高潔なものであろうとも、結局は人間を粉砕するべく、人間の前に立ちふさがるのである。各人は、例外なく、おのれの夢見るものの犠牲となり、おのれの実現するものの犠牲となるだろう。

「日本版への序」

ここにシオランの反動性を見ることができるかもしれない。人間の知性や理性によって計画された社会設計を実現させることにより、よりよい社会になる、そういった左翼思想に対する痛烈な批判である。

だからといって、シオランが保守思想者なのかというと、まったく違うような気がしてならない。積み重なった経験則によって、じわじわと社会を良くしていく、などという思想ともかけ離れている。

つまりは、生というもの自体を否定し、人間というものに絶望している人間なのである。その感じは、おれにとってとても支持したくなるものに違いない。反出生主義にそもそも右も左もないじゃないか。

自由は病める社会でしか繁栄することができません。寛容と無能力とは同義語なのです。政治において、いや一切の事象において、これは明白な事実です。

「社会の二つの典型について」

そう、そして自由ですら否定してみせる。「自由を所有している私たちにとっては、自由とは幻影にすぎません」。

思想について。

急所を狙いうちしたいと望まれるのか? それならまず、君と同じ種類の思想を持ち、同じ偏見を持ち、君と同じ道を並んで走ろうするあげく、必然的に君を押しのけ、あるいは君を打倒することを夢見る人間を精算すべきであろう。彼らこそは君のもっとも危険な敵手なのだ。

「暴君学校」

レームを粛清したヒトラー、アンギアン公(アンギャン公)を処刑したナポレオン、多すぎて名前が挙げられていないスターリン……。

絶対的権力とはなまやさしい事業ではない。ただ、桁外れの大根役者か人殺しのみが、この事業に異彩を放つことができるのである。良心の呵責にうちのめされた圧制者というものほど、人間的見地からは讃仰すべく、歴史的見地からすれば哀れをとどめたものはあるまい。

「暴君学校」

われわれが今、このとき、圧制者とみなしうる人物はいるだろうか? そいつは大根役者か人殺しか、はたして見分けがつうだろうか。それとも、今どき圧制者なんてものは存在しうるのであろうか。

さて、政治の源に嫉妬があり、それゆえに同じ道の者を精算しろ、といったが、個々人についてはどうだろうか。

 同時代に生まれることを「選んだ」すべての人間、私たちと並んで走り、私たちの歩みをさまたげ、私たちを後方に取り残そうするあらゆる人間に、私たちは恨みを抱く。はっきり言ってしまえば、すべての同時代人はいまわしいのである。私たちは死者の優越性は仕方なしにみとめても、生者のそれをみとめることは決してない。生ある者は、その存在自体が、私たちに向けられた一個の非難、ひとつの叱責、謙譲という目くるめきへの勧誘となるのだから。おびただしい数の同胞が私たちを凌駕しているという、この明白な、耐えがたい事実を、私たちは本能的な、あるいは絶望的な詐術によって、あらゆる才能を僭取しつつ、自分だけが比類なき人間たる特権を持つのだと言いはりつつ、たくみに回避してしまう。競争相手のそばにいては、お手本のそばにいては窒息してしまう。

「怨恨のオデュッセイア

よく、インターネットの登場によって、ある分野のちょっとした才能(村一番くらいの才能)が、いきなり世界一の才能と戦わなければならなくなってしまった、という話がある。それによって打ちのめされてしまう自信や自尊心というものもあるだろう。そして、シオランはネットなんてものは存在しない時代に、こんなふうに言い切っている。村で一番の歌い手も、町で一番の利口者も、いつの時代だってそれ以上の同時代存在に負け続けてきた。さもなければ本当の井の中の蛙なのかどうか。蛙であることが本能的な回避、なのかもしれないが。

それにしても、この嫉妬心、みなさんはお持ちですか? おれは持っている。おれの趣味、とりわけ読書などが昔好みなのは、それによると言っていい。死者のものは安心して読める。おれは嫉妬と恨みの人間であるとおぼえておいてほしい。

 

 どこの街でもよい、たまたま足の向いた大都市で、よくここに反乱が起こらずにいるものだ、大虐殺が、名状しがたい惨鼻の屠殺が、世界の終りの擾乱が毎日のように突発せずにすんでいるものだ、と感嘆してしまう。かくも圧縮された空間に、かくもおびただしい人間が、どうして殺しあいもせず、いのちに関わるまで憎みあうこともなく共存していられるのであろう。ありていに言えば、彼等は憎みあっているのであるが、憎悪を実行に移すだけの能がないのである。この凡庸さ、この無能力が社会を救い、その持続と安定を保証しているわけだ。

ユートピアの構造」

シオランは最後の著作ですら「私たちがこの地上にいるのは、互いに苦しめあうためだ。ほかになんの理由もない」と書くくらいなのであって、この人間観、世界観は不動であり、根底にあるもののようだ。あと、関係ないけれど東京の満員電車など何年かに一度体験すると、おれもシオランと同じような感嘆を抱いてしまう。よくみんな……平気だな。いや、そのぶん、おれの二倍、三倍、それ以上のお賃金を得ているのだろうが。

して、ユートピア

 労働の優位性を説くことによって、各種ユートピアは『創世記』と真向から対立せざるをえなかった。[創世記によれば、労働は人間堕落の帰結である]特にこの点で、ユートピアは、勤労の中に飲み込まれた人類、原初の堕落のもたらしたさまざまの帰結に満足し、またこれを誇りとする人類の一表現にほかならぬ。堕落の帰結として一番重大なのは、何といっても能率という固定観念であろう。「額の汗」を深く愛し、これを以て高貴のしるしとし、大よろこびで働きまわり労苦を背負いこむ一種属の烙印を、私たちは鼻高々で見せびらかして歩く。

ユートピアの構造」

なるほど、ユートピアには健全で健康的で創造的でいきいきと楽しめる残業も休日出勤も低賃金もないすばらしい労働社会、労働制度が描かれているイメージはある。そして、それらは表裏一体のディストピアに容易にひっくり返る。というか、今どき、そういった「すばらしい労働社会」をユートピアとして描くことはできなくなっているように思える。古い思想家、社会主義者アナーキストでもよい、彼らの描く未来社会というものを、もうわれわれは夢見ることができない。その絶望は、たとえばAIやロボットというものの進歩によってシンギュラリティが起こる、といった半ば現実的な事柄(シンギュラリティがどうかはしらんが)においても適用されてしまう。われわれは「太陽国民」、「ユートピア国民」、「調和国民」になどなれはしない。まあ、このあたりはおれの戯言。

ひとつの社会は、その社会の実情とはまるで釣合いのとれぬかずかずの理想を、暗示してやるなり教えこんでやるなりしなければ、決して発展もせず確立されもしないのである。集団の生命を維持する上でユートピアの果たす役割は、民衆の生活の中で使命という理念の果たす役割にひとしい。イデオロギーは、救世主待望の幻影から、あるいはユートピアの幻影から生まれた副産物であり、いわばその普及版であろう。

 

一個のイデオロギーは、それ自体では良くも悪くもありはしない。一切はそのイデオロギーを採択する時機ににかかっている。一例がコミュニズムであって、これはある種の男性的な民族に対して刺激剤として働く。その民族を前へ押しやり、膨張、拡大を助ける。だが、よろめきだした民族には、その影響力はずっと小さいにちがいない。元来が真でも偽でもないコミュニズムは、運動の過程を速める役をするのである。

ユートピアの構造」

さあ果たしてわれわれの社会(と、おれが言うときは、この現代日本、ということになるのだろう)に、ユートピアはあるのだろうか。なにかもう、どこにも「理想」というものが見当たらなくなって久しいように思えてならない。今までの社会を維持できるかどうか、マイナスの穴をいくらか埋められるかどうか、そんな撤退戦の時代ではないだろうか。

たとえばおれひとりが心の中で大杉栄の描いた「各人が自由で、それでいて調和のとれた世界」というものをぼんやりと夢見たところで、それはもうイデオロギーにすらなっていない。コミュニズムの夢も破れて久しい。われわれにはなにが残されているのであろうか。歴史が終わったとはこのようなことを言うのであろうか。だとすれば、国際社会というものからも降りてしまって、あとは自国民をなんとか食わせるだけの機能を果たせばよい。だが、それが、それだけのことが実に難しいというのが、なんとも不可解であり、じつに苦しいことだと思わずにはいられない。人間は不相応に増えすぎてしまい、技術は不相応に発展しすぎてしまったのではないか。もう、これ以上、人間の数を増やして労苦を増やすのはやめよう。違うだろうか。

 

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E・M・シオラン『崩壊概論』を読む

 

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E.M.シオラン選集〈1〉崩壊概論 (1975年)

E.M.シオラン選集〈1〉崩壊概論 (1975年)

 

シオラン、フランス語による初めての著書である。四回書き直したとか言っていた。1947年のことである。

本書はのちのシオランの著書のように、アフォリズムで構成されていない。「いや、この長さ、この構成はアフォリズムだよ」という人もいるだろうが、おれにとっては、ひどく精神的な調子が悪いおれにとっては読むのに苦労した。べつに理由にはならないか。

ともかく、フランス語最初の著作ということもあってか、シオラン先生みなぎっている。

 誰かが理想や未来や哲学について大まじめに論じるのを聞いたら、また、断乎たる口調で《われわれは》と言い、《他の人々》のことを持ちだしてその代弁者たらんとするのを耳にしたら――もうたくさん、それだけで私はそいつを敵とみなす。私がそこに見るのは、出来損ないの独裁者、まがいものの死刑執行人で、それは本物の独裁者や死刑執行人同様、憎むべき存在である。

今でもネットのこのあたりの界隈で「主語が大きい」とか「太宰メソッド」とか言われていることでもあるだろう。そしてさらには、人間の理想、人間の考えたことに対する不信から、これを反動的とみなすこともできるだろう。

 両肩と心の中に重荷を負い、牢獄の中で生まれたわれわれは、人生にけりをつけようと思えばつけられるのだからもう一日だけ生きてみようという気になるのであって、それでなければ一日たりとも生き長らえることはできないだろう……。この世界の鉄鎖の汚れた空気は、われわれから一切合財を奪い去り、残ったのはただ自殺する自由だけである。この自由が力と誇りを吹きこんでくれるので、われわれはのしかかってくる重荷を辛うじてはね返すことができるのである。

あるいは

 今でも私はい、生きている詩人よりも首をくくる門番の方を尊敬する。人間とは自殺猶予者だ――これこそ、人間の唯一の栄光、唯一の言いわけである。

奇妙なことに、死は永遠であるのに人間の習俗の中に入りこんだことがなく、唯一の現実であるのに流行することおあり得まい。かくてわれわれは、生きている限り、死におくれた者なのである……。

 この自殺観、人生観ものちのちまで何度も出てくる。自殺という観念がなければ、とっくに死んでいた、と。精神医学的、死後剖検的な見方からすれば、自殺というのはそんな高尚なものではなく、単に病気だということになるわけだが、さて死なないために自殺を抱くのは病気なのかどうか。病的ではあるかもしれない。

しかし、死が習俗の中に入る、流行する、これは今後ありえることではあるまいか。尊厳死安楽死、そういった面で。あるいは、現代日本はまだ自殺ブームのなかにあるのかもしれない。そして、これからもまた、一層。

 

 地球の屋根裏部屋のひとつで

《俺は夢見た。遠いとおい春を。海の水泡と俺の生誕の忘却のみを照らす太陽を。大地を呪い、どこを見てもよそへ行きたいという願いしか見出だせぬこの苦痛に唾棄する太陽を。地上の運命という刑苦をわれわれに与えたのは誰なのか。大地というこの陰鬱きわまる物質、時間から生まれたわれわれの涙がぶつかっては砕け散るこの大いなる悲嘆のかたまりである地球は、記憶にもない大昔、神の劫初の身慄いから落ち来たものだったが、いったい誰がそこにわれわれを固く縛りつけたのか。

 

《地球こそは――造物主の犯した罪だ。しかし俺には、もう他人の誤ちを尻拭いする気などない。大陸という大陸から逃亡して死苦を迎え、流動する砂漠に入り、非人称の破滅の中で、わが生誕から癒やされたいと願うのみだ。》

このあたりは詩人らしくもある。そして、地球非難である、生誕への非難である。生誕という厄災こそがシオランの原点のように思える。しかし、「非人称の破滅」というのはいいな。いつかかっこつけて「非人称のなんとか」とか書いてみよう。

 

貧乏人の位置

資産家と乞食――これが、いかなる変化、いかなる革新の混乱にも反対する二つの部類である。社会階層の両極端を占める彼らは、良きにつけ悪しきにつけ、あらゆる変化を恐れる。資産家は豪奢の中に、乞食は赤貧の中に、ともに腰を据えているからえある。両者の間に位置するのがあくせく働き、苦しみ、耐え忍び、そして希望という不条理を営々と耕す人々――かの無名の汗、社会の土台なのである。

 その「人々」、すなわち貧乏人。金持ちと浮浪者は貧乏人の寄生虫だという。

赤貧を救う手だてはたくさんあっても、貧乏を救う手だてはまったくない。餓死しまいと懸命な人々を、どうやって救えばよいのか。神さえも彼らの運命を変えることはできまい。運命の寵児と、ぼろをまとった人間のあいだを、腹を減らした名誉ある貧乏人たちが動きまわっている。この人々は、華美とぼろの両方から膏血を絞られ、働くことを嫌ってそれぞれの運や天命に従いつつ客間または街路に坐りこんでいる連中から、一方的に掠奪されるばかりである。人類は、まさしくこうして歩んで行くのだ。つまり少数の富者と少数の乞食――そして大量の貧乏人という構成で……。

さあ、このあたりの考えかたには「ちょっと待った!」という各方面からの声も聞こえて来そうだ。だが、物の言い方はともかくとして、なんとなく納得できる「構成」ではあるような気がしないだろうか……。

 

 真の知とは、結局、夜の暗黒の中で目覚めていることにつきる、すなわちわれわれの不眠の総量こそ、われわれと動物ないし他の人間たちとの違いのポイントなのである。眠っている人間から、かつて豊かな、あるいは不思議な思想が生まれたためしがあったろうか。君はよく眠れて、見る夢も安らかだろうか? それなら、君は無名者の群をふやすだけである。昼の明るさは思想の敵で、太陽は思想を暗くする。思想は夜にしか花開かないのである。

すさまじい不眠症であったシオランの言うことである。深夜主義だ。「白昼の言葉で知性の名誉を救った人間があっただろうか」だ。このひねくれ加減が好きな人もいれば嫌いな人もいるだろう。おれは真の知に目覚める可能性がないので、睡眠薬を飲んで眠ってしまう。

 精神を覚めた状態にしておくのに、コーヒー、病気、不眠ないし死の固定観念があるだけではない。貧苦もまた、より効果的とは言えぬまでも、同じくらい精神の覚醒に役立つのである。永遠に対する恐れと同様に、明日のパンの心配も、形而上学的恐怖と同じく金の心配も、休息と投げやりを不可能にする。――われわれの屈従は、すべて、餓え死にするだけの決心ができないことから由来する。

 餓死する決心をして餓死した、屈従しなかった人間……辻潤などが思い浮かぶ。だが、ほとんどの人間にとってそれは無理だ。そしてそうだ、「金の心配」は病めるおれをして「休息と投げやりを不可能にする」。これは正しい。しかし、いざとなればおれは自殺できる。そう思えばこそ生きていける。そういうもんなんだろう、シオランさん。

 

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断章は倦怠感にちょうどいい―シオラン『苦渋の三段論法』を読む

ここ何日か……と書いて、「こんなに長く感じるのに、たった何日か!」と思うのだけれど、まあともかくひどい倦怠感、鉛様麻痺、抑うつに襲われている。「襲われる」というほど派手なものではないが、ともかく身体が動かない、身体が重い。重力の偏りを感じる。ここだけが重い。これが無重力状態だったら、おれの「重さ」はどこへ向かうのだろうか。だれかおれを民間宇宙飛行に連れて行ってくれないか。

宇宙はどうでもいい。この地球の重力に魂を縛られた人間として、この地に這いつくばるしかない。這いつくばって……本でも読むか? だが、つらつらと続いていく文章を追うことができない。が、断章、アフォリズムなら読むことができる。ちょうどよく、おれの手元にはシオランの本がある。

 「どうして断章しか書かないんです」――若い哲学者が、とがめるようにいう。

 「まず怠惰のせい、つぎが軽薄かな。嫌悪感から、ともいえるし、まあ、ほかにもいろいろ」――しかし、ちゃんとした理由はあげられない。そこで私は、仕方なく、くどくどしい釈明の言葉を並べたてた。すると哲学者は、それこそが誠意ある返答と思えたらしく、すっかり納得してくれたものだった。

「忌わしき明察」

シオランの「断章」のなかでは、これでもかなり長いほうだ。おれの勝手な思い込みだが、シオランの「断章」は倦怠や抑うつにぴったりであって、それはシオラン本人が味わう体感から出てきているのではないか……。ともかく、シオランの「断章」であれば、おれはこんな状態でも寝っ転がって読むことができる。

 

E.M.シオラン選集〈2〉苦渋の三段論法 (1976年)

E.M.シオラン選集〈2〉苦渋の三段論法 (1976年)

 

 というわけで、『苦渋の三段論法』を読んだ。あまり分厚くないし、断章でできているので、いまのおれにはぴったりだ。内容が苦渋=難解、というわけでもない。苦渋には溢れているが、この世というものの核をグサグサと突き刺すようなこころよさがある。

 死んだ方がよいと思ったときいつでも死ねる力があるからこそ、わたしは生きている。自殺という観念をもたなかったら、ずっと以前にわたしは自殺していたであろう。

わりと長生きしたシオラン曰く、である。だいぶ前に流行った『完全自殺マニュアル』のような本でも、いつでも自殺できるということで、逆に生きる糧となる、というようなことが書かれていた。死をポケットに入れて。

 旧約聖書の世界では、ひとは天帝をおびえさせることができた。ひとは拳で天帝をおびやかした。祈りとは造物主と被造物との口論であった。福音書が出現して両者を和解させた。そこにキリスト教の許しがたい落度がある。

おれはキリスト者ではないし、キリスト教にもくわしくないが、こんなのもおもしろい見方だろう。もちろん、西洋のキリスト教社会でこの言葉がどのように響くかは想像できないが。ところで、なんとなく、天帝とか拳って『北斗の拳』っぽい。

 もしノアが未来を読みとる才能に恵まれていたなら、間違いなくかれは方舟の底に孔を穿けて自沈していたにちがいない。

また言ってるよ、というのもなんだが、シオランの絶望は歴史の始まりともにあって、すべての果てに自身がいる。それを変奏している。そして、人類は破滅するべきだという。シオランは未来を読みとっている。

 すべてを理解したと信じた瞬間に、われわれの顔は人殺しの相貌となる。

「私たちがこの地上にいるのは、互いに苦しめあうためだ。ほかになんの理由もない」といずれ記す人間の言うことである。おれはすべてを理解したわけじゃないが、この社会で人間は人殺しの顔をするべきだと書いたことがある。

d.hatena.ne.jp

 自殺への傾向こそ、法を遵守する臆病な人殺しの特徴である。かれは他人を殺すのを怖れるあまり、わが身を無きものとすることを、罰を受けないですむ確実な手段として夢想するのだ。

そうだ、そして、おれは臆病な人殺しだ。だから、希死念慮を抱く。歩いていたら、いきなり歩道にダンプカーが突っ込んできてくれないかと思う。眠りについたら、身体のどこかがうっかりミスを起こしてそのまま死ねないかと思う。やがてはもっと自発的に、意識的に、自裁せねばならないと思う。金がなく食うところも住むところもなくなるは目に見えているし、そうやって飢えて死ぬよりはいくらか楽だろうと思う。生きるのは辛い、死ぬのも怖い。とはいえ、生きることの辛さがある閾値を超えたら、死ぬほうが楽だろう。

 死がバラ色に見えない人は心臓が色盲なのだ。

 

 

 

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シオラン『告白と呪詛』を読む

 

告白と呪詛

告白と呪詛

 

  もう一つ、原著者の名前について。シオランの洗礼名はエミールであるらしいが、彼は早くからこれをE・Mと略すようになった。そしてとうとうこの本では、そのE・Mも捨てて、ただ、シオランとだけ名乗っている。この人の、断念の果てという感じがする。

訳者後記

というわけで、シオラン最後の一冊を読んだ。といったところで、おれはまだ『生誕の災厄』一冊しか読んでないことになっているので、「ようやく最後まで……」という感慨があるわけでもない。ただ、「少しまるくなったかな?」というような気はしないでもない。それも、断念の果ての境地なのだろうが。

シオランについてなにか引用しようとすると、すべて引用したくなってくる。フェルナンド・ペソア病に近いかもしれない。だが、いくつか。

 独りでいることが、こよなく楽しいので、ちょっっとした会合の約束も、私には磔刑にひとしい。

どこがまるくなったのだ? という感じすらする。とはいえ、老いてますますこの境地というのは、我が祖母を思い出さずにはいられない。おれはその血を受け継いでいる。

 倦怠はたしかに不安の一形式だが、恐怖の影を拭い去った不安、とでもいうべきか。倦怠にとらわれると、人は実のところ、何ものをも怖れなくなる。倦怠そのものを除いては。

 これは昨日今日のおれを襲った抑うつ状態を説明しているかのようである。

オートバランサー無しで二足歩行は難しい……双極性障害、抑うつ、日内変動 - 関内関外日記

人生に対する怖れ、不安はいったんどこかへ行ってしまう。それどころではなくなる。また、倦怠感に襲われるとき、なにかを考えることを放棄したくなるという意志すらも湧き出てこなくなる。ただ、この事態そのものをどうするか、このままだとどうなるのか、という怖れをいだく。

 私がこしらえようとしなかった子供たち。もし彼らが、私のおかげで、どんな幸福を手に入れたか知ってくれたなら!

ひねくれた言い回しだが、シオランの反出生主義がよく現れている。一切皆空、生老病死。そういえば、本書にはシオランが『正法眼蔵』のフランス語訳を読んだみたいなことが書いてあった。

 私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない。

大学に入りたてのころだったか、なにかの授業で「ある文化とはなにか?」という、えらく抽象的な質問を当てられて、苦し紛れに「同じ言語を有するものです」と答えた覚えがある。言いながら、なんて不完全な答えだろうと思った。講師は「それも一理あるが……」と続けたが、その先はおぼえていない。そのときおれはシオランのこのアフォリズムを知らなかった。ちなみに、シオランははじめルーマニア語で書き、あとはフランス語で書いた。

 人間は、自分が呪われた存在だということをたやすく忘れてしまう。世の始まりからして、呪われているせいである。

 「世の始まり」をどこととるか。おれはまだシオランを二冊しか読んでいないので、彼の見解をスラリと述べることができない。グノーシス的に偽りの神のことを述べるか、それとも東洋的な見方か?

 ドイツ人は、パスカルハイデッガーを、同じ鞄に入れるのは滑稽なことだというのが、わかっていない。この二人を隔てる距離は、シックザール(運命)とベルーフ(職業)との距離にひとしい。

 おれはパスカルハイデッガーも名前しか知らない。では、なぜこの断章を引用したのか。シックザールとベルーフという競走馬がいるからである。シックザールは福島牝馬ステークスを制したスイートサルサの弟で、父はジャスタウェイ。これを書いている時点で未出走の新馬ベルーフ京成杯勝ちの実績があり、父はハービンジャー、母はレクレドール、その母ゴールデンサッシュ、すなわちステイゴールドの近親。さて、この両馬の距離はいかほど?

パスカルとハイデッガー―実存主義の歴史的背景 (1967年)

パスカルとハイデッガー―実存主義の歴史的背景 (1967年)

 

 

 何ひとつ達成できなかった。それでいて、過労で死んだ。

なにか唐突でいて、ひどく皮肉で、おかしくて悲しい。もしおれがおれ個人の墓というものを有するなら、この一文を刻んでもいい。原語はしらんが。

 一日また一日と、私は「自殺」と手をたずさえつつ生きてきた。自殺をあしざまにいうのは、私からすれば不正、恩知らずのたぐいだ。自殺ほど理にかなった、自然な行為があるだろうか。自殺の反対物を考えてみるがいい。この世に在ろうとする気狂いじみた欲求がそれだ。人間の、骨がらみの病い、病いの中の病い、わが病い。

埴谷雄高も反出生主義者といっていいだろうが、「人間にできる最も意識的な行為として、自殺すること、子供をつくらないことの二つがある」という言葉を残した。自殺は自然だろうか、それとも最も意識的な行為だろうか。そして、シオランは「わが病い」と言っている。存在の辺縁で、そう言っている。

 挫折することがひとつの責務になり、「わたしは本望を遂げられませんでした」という言葉が、あらゆる打ち明け話の主要旋律になっているような、そんな国から私は来た。

「そんな国」が現実の国を指しているのか、シオランの国を指しているのかわからない。しかしおれも「そんな国」に住んでいないとも言えないだろう。

 雲がつぎつぎに流れてきては、走り去ってゆく。夜の静寂の中で、急ぎ足の雲の立てる音までが聞こえそうだった。私たちは、なぜ、この地上にいるのか。人間というこのちっぽけな生きものが、ここに在ることに、何か意味があるのだろうか。こんな問いに答えがあるはずもないのだが、私はごく自然に、いささかの熟慮も経ず、この上なく陳腐な言葉を吐くのを恥ともせずに、こう答えてやった。

「私たちがこの地上にいるのは、互いに苦しめあうためだ。ほかになんの理由もない」

 なにやら詩的な流れから、一気に落とすスタイル。中学校の国語の教科書にでも載せてみたらどうだろうか。

 人間はいまや絶滅しようとしている。これが、こんにちまで私の抱いてきた確信だ。ちかごろになって、私は考えを変えた。人間は絶滅すべきである。

いいなあ、老いてますます盛ん、などと言ってはなんだが、なんとも勇気づけられる言葉ではないか。この言葉を前にしては、未来は明るいとしか言えない。

というわけで、『告白と呪詛』。なぜかわからないが、帯で安部譲二も絶賛している一冊。おすすめです。

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フェルナンド・ペソア『不安の書』を読む

 

不安の書

不安の書

 

フェルナンド・ペソア『不安の書」である。そう書いてみて、ちょっと説明不足だな、というところがある。まずはフェルナンド・ペソアが異名であるリカルド・ソアレスの名で書いたという点がある。そして、本書を十分の一くらいにした『不穏の書、断章』という本がある(本を読んだ)という点がある。そして最後に、ペソアがこの本をこの形で出そうとしたかどうかわからない、というところがある。すべて、遺稿をだれかが編集したものだからだ。

……まことにめんどうな話である。だからといって、本書はめんどうではない。むしろペソア本人の言葉に近い(という言い方が妥当かどうかしらん)ともいえる。そして、その感性は、おれという人間におおいに響くところがある。おれもこのような人間だろうと思うのだ。ペソアに、あるいは、ソアレスに寄せて。

 ほとんどいつもそうしているように自分を外から見ると、わたしは行動には不向きで、歩いたり身動きしたりしなければならなくなると困惑し、他人と話すのが不得手で、精神的努力を要することで娯しむには頭脳の明晰さに欠け、気晴らしになる単なる機械的な労働に従事するには肉体的な持続力もない。

面倒くさいやつだ。でも、おれもそうなのだから仕方ない。

 意識しているいないにかかわらず誰もが形而上学を持っているように、望む望まないにかかわらず誰もがまたある道徳を守っている。わたしはきわめて単純な道徳、誰にも悪いことも善いこともしないという道徳を守っている。

 これはまり面倒くさくない。ペソアが仏教の影響を受けたかわからぬが、善行も悪行も同じ業に変わりはない。サンスカーラは自由にならない。つきつめれば親鸞悪人正機になる。本願ぼこりもまた誤りのもとである。悪いことも、善いこともしない、一つの境地ではないか。

なぜ芸術は美しいのか? 役に立たないからだ。なぜ実生活は醜いのか? すべて目的、目論見、意図だからだ。実生活の道はどれもこれも、ある地点から別の地点へいくためだ。誰も出発しないところから、誰も向かっていないところへ向かう道があればよいのだが、

芸術とは何か? という話になると面倒だが、実生活と比べてみてこの見解はいいと思う。目的、目論見、意図……いまどきの言葉でいえば「生産性」。これである。ただ、実生活の「道」以外の道はおれには見えない。ただ、目的、目論見、意図の世界が今のこの世を覆い尽くして、おれは息ができない。

 倦怠はあまりに壮大で、生きているという恐怖はあまりに絶大なので、わたしには、それに対する鎮痛剤、解毒剤、香油、忘却として役立つものがあるとは想像もできない。眠るのは、この上なくわたしを恐れさせる。死ぬのは、この上なくわたしを恐れさせる。進むにせよ立ち止まるにせよ同じことでいずれも不可能だ。希望も不信も、同じように冷たく灰色だ。わたしは空の小瓶の並んだ棚なのだ。

アメリカとかいう国ではオピオイド系鎮痛剤で毎日何人だか何十人だかが死んでいるらしいが、この世は苦痛なのであって鎮痛剤が必要なのは間違いない。なぜ日本人は大麻を、オピオイドを忌避するのか。痛みを感じて生きているのはおれだけなのか、早く死ねということなのか。

というような嘆きばかりがペソアではない。そうでなければ、ポルトガルの国民的詩人になったりはしないだろう。

わたしたちはまだ若く、高い樹のもとを森の柔らかいさらさらという音を聞きながら通り過ぎた。たまたま回り道をすると、突然現れた空き地は月光に照らされて湖になり、枝がもつれたその岸はよるそのものよりも夜だった。大きな森のかすかな風は樹々を渡って音を立てながら息をついていた。わたしたちはありえないことを話し、わたしたちの声は夜や月光や森の一部になっていた。わたしたちはそれを他人のもののように聞いていた。

こんなん……って、もっとよかったような気がするが、まあいい。こういうところだ(どういうところか?)。

 世界は感じない人間のものだ。実用的な人間になるための本質的な条件は感性に欠けていることだ。生活を実践する上で大切な資質は行動に導く資質、つまり意志だ。ところが、行動を妨げるものがふたつある。感性と、結局は感性をともなった思考に過ぎない分析的な思考だ。

このあたり、「感じない人間」からは、単なるルサンチマン、負け犬の遠吠えと言われるところだろう。そして、それに返す言葉はない。そして、「感じない者は幸せ」なのである。おまえはどちらの人間だろうか。そしておれは。

……わたしは頭が痛いので、頭が痛い。頭が痛いので、宇宙が痛い。だが、実際わたしに痛みを与える宇宙は、わたしの存在することを知らないので、本物の存在ではない。しかし、それはわたし自身の宇宙であり、もしもわたしが頭をかきむしるなら、ひたすらわたしに痛みを感じさせるために、頭全体が痛がっているとわたしに思わせているのだ。

そうだ、宇宙が痛いのだ。そして、おそらく宇宙は虚しい。

 わたしは自分の静かな部屋で、いつもそうだったように独りで、これからもそうであるように独りで、もの悲しく独りで書いている。さらに、うわべは取るに足らないわたしの声が、何千もの声の実質を、何千人もの自己表現の渇望を、わたしのように毎日の運命のなかで無益な夢、つかみどころもない希望に服従した何百万人もの忍耐心を、具現しているのではないかと考える。

むなしく痛い宇宙で、独りではないかもしれないという希望、それは虚しくないものだろうか。おれも、なにかを書いていて、独りではないと思うことはあるだろうか?

 あらゆる人間がわたしでないのが羨ましい。それは不可能なことのなかで最大のもののように思われ、それが最大の原因となって、わたしの毎日の苦悩、あらゆる時間が悲しいというわたしの絶望が生まれた。

とはいえ、やはり独りの苦悩を抱えるのだ。その絶望の深さは絶対のものである。そこまで人間は自分を貶めるか、絶望するかといえば、あくまで取るに足らないおれから言ってもYES、だ。

 私は人と友達になる才能がいくらかあったが、そういう人がいなかったせいか、わたしの想像した友達付き合いがわたしの夢の間違いだったせいか、一度も友達ができなかった。いつも孤立して、自分を意識すればするほど、ますます孤立して暮らした。

これもYES、だ。いや、それって結局、才能ねえんじゃねえの、と言われたらそれまでだが……。

 自由とは孤立の可能性なのだ。もしおまえが人から離れることができ、金銭の必要性や群れを作る必要や愛や栄光のために人を捜し求めなくてもすむなら、おまえは自由だ、なぜなら、そうしたものはどれも、静寂や孤独のなかでは栄えないからだ。もしもおまえが独りで暮らせないのなら、奴隷に生まれついたのだ。精神と心のあらゆる偉大さをそなえているかもしれない。それなら、おまえは高貴な奴隷か賢い召使いだ。だが、おまえは自由ではない。そして悲劇はおまえに起きているのではない、なぜなら、おまえがそのように生まれたという悲劇はおまえに起きたのではなく、ただ〈運命〉によるおのだからだ。しかしながら、生活が圧迫し、生活そのものがおまえに奴隷になるように強いるなら、おまえは哀れだ。もしも自由に生まれ自己充足でき、孤立することができるのに、貧困のために共同生活をせざるを得ないなら、おまえは哀れだ。そう、それはおまえの悲劇で、おまえにつきまとう。

 そうなのだ、おれも奴隷に生まれついたのだ。「生まれつき自由の身」ではないから、「人間の最大の光輝」をえられぬ身にすぎない。悲惨で哀れだ。おれは孤立と自由を希う、絶対的な孤立と自由を。

 金は素晴らしい。なぜなら、解放だからだ。

まさに、そのとおり。ペソアはわかっている。すくなくとも、おれの気分をわかっている。そう思う。しかし、だからといってペソアにとってなんなのだろう。

 すでにわたしの属していない将来のある日、もしもわたしの書いているこうした文章が称賛を得てながらえているなら、とうとう「理解してくれる」人、わたしの親類、そこに生まれ、愛される真の家族を得るだろうと、悲しい喜びを感じつつ時おり考える。しかし、わたしはその家族に生まれるどころか、ずっと前に死んでいるにちがいない。わたしは肖像としてしか理解されず、その時には、愛情は、これを受けたからといって死んだ者が生きていたときに受けた冷淡一方の扱いの償いにはならない。

 ……ってな具合なんだろうな。

以上。

 

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……いきなり「不安の書」だと分厚いから、こっちからでいいと思うよ。

 

 

反出生主義、この世に生まれ出るという不運―シオラン『生誕の災厄』を読む

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ただひとつの、本物の不運、それはこの世に生まれ出るという不運だ。起源そのものに宿っていた攻撃的要因、膨張と熱狂の原理、起源にゆさぶりをかけたあの最悪のものへの突進、そこまでこの不運の源泉を遡ることができるだろう。

おれはおれを反出生主義者ではないかと思っている。詳しいところはわからない。以前、おれはブックマークにこんなことをメモした。

やはり人類の絶滅こそが一番正しいのではないだろうか?

べつに今いるのを殺すことはないけれど、これ以上増やさなくてもいいとはわりと本気で思う。

2018/06/11 14:18

b.hatena.ne.jp

おれはこれを書いたとき「これだ」と思った。べつにだれの言葉の引用でもない。おれの内から湧き出た言葉だ。ひょっとしたらだれかの影響を受けているのかもしれないが、それを言い出したらキリがない。ここに今叩きつけている言葉そのものも影響だろう。ともかく、「今いるのを殺すほどではないが、これ以上増やさなくてもいい」。これはおれの生命観、人間世界観のど真ん中に据えてもいいように思えた。

おれのこのような考え方は、「反出生主義」という考え方に属するのかもしれない。

反出生主義 - Wikipedia

べつにおれはショーペンハウアーを読んだこともないし、読める自信もない。

だが、仏教における生老病死で「生」が一番にあること、そして老病死については避けられないが(いくら健康を心がけようが「病」から完全に逃げ切るのも無理だろう)、「生」はコントロールできること。その苦しみを断つことができるのならば、それに越したことはないだろうということ。これについては、新たなる生を寿ぐな、という意味にとってもいいように思える。一切皆苦。おおよその場合、サンスカーラはコントロールできない。もとより生まれなければ、この世からその分の苦しみは確実に減る。それは望ましいことではないのか?

……と、おれはそのような考えに凝り固まっているので、それを中和するために毒を摂取することにした。それは生命の誕生を肯定するものであろうか? 否、逆である。反出生主義の考えを見ることにより、そこに自分と相容れない部分が見つかるかもしれない。そういう毒である。おれは薬より毒を好む。

というわけで、手にとってみたのが上記Wikipediaの冒頭で挙げられている、エミール・シオランである。シオランの『生誕の災厄』、この本を読んでみた。いかにも反出生主義らしいタイトルではないか。もっとも、シオランはほとんどの書物で似たような呪詛を吐いているという話だが。

で、どうだったのか。はっきりいっておれはシオランに酔ってしまった。大雑把に、その作家なり思想家なりの側に立つか、反対側に立つかという分け方をしたとき(ウルトラクイズの二択問題など思い浮かべてくれればいい)、完全におれはシオランの側だな、と思った。おれが今までそう思ってきた外国の作家や思想家というと、ルイ・オーギュスト・ブランキであり、ミハイル・バクーニンであり、P.K.ディックであり、カート・ヴォネガットであり、チャールズ・ブコウスキーであり、セリーヌであり、ジェイムズ・エルロイであり、フェルナンド・ペソアであり……その他いろいろである。おれがそう思っているだけで、思想的に彼らが同じ側にいるとは限らない。ただ、そのリストにエミール・ミハイ・シオランの名が連なった。一冊だけ読んでそう思った。

 私たちは死へ向かって走り寄りはしない。生誕という破局からも、なんとか目をそむけようとする。災害生存者というのが私たち人間の実態だが、そのことを忘れようとして七転八倒ありさまだ。死を怖れる心とは、じつは私たちの生存の第一瞬間にまでさかのぼる恐怖を、未来に投影したものにすぎない。

 たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末こそにあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、<完全なるもの>は世に姿を現さないであろう」と仏陀はいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生まれるという事件を置いたのである。

本書冒頭のこのくだりを読んで、自分が考えていたことを1911年生まれのルーマニア人が述べているということに、思わず昂奮したといっていい。おれの仏教理解も怪しいものだし、シオランの仏教理解が正しいかどうかもわかったもんじゃない。だが、生老病死をそのように読んだ人間がおれ以外にもいた、というのは、やっぱり驚きに値することじゃないのか。

 はるかな昔から私は、この世が自分むきに出来ていないのを、どうしてもこの世に慣れることができないのを自覚してきた。私が多少なりとも誇りを持つことができたのは、まさにそのゆえだし、さらに言えば、そのゆえでしかなかった。私がこの世に存在していること自体、聖詩が損傷し磨耗してゆく過程のように思われるのもまた、そのゆえである。

おれはよくおれはこの世に向いていない、おれは人生に向いていないというが、見方を変えれば「この世が自分むきに出来ていない」のだ。

 生まれ出ることによって、私たちは死ぬことで失うのと同じだけのものを失った。すなわち、一切を。

プラスマイナスゼロ? 否、生まれたことでマイナス、死ぬことでマイナス。マイナスにマイナスの引き算。間違っても掛け合わせてプラスに転じることなどない。

 生誕とは不吉な、少なくとも都合のよくない事件だと認めれば、一切がみごとに説明できる。だが、この見解を認めようとしないかぎり、人は理解不可能なものを甘受するか、万人のひそみに倣って、ぺてんをやってのけるしかない。

しかり、しかり。

 幼虫の身分に固執するべきだった。進化を拒み、未完成に踏みとどまり、諸元素の午睡を楽しみ、胎児の恍惚に包まれて、静謐のうちに滅び去ってゆくべきであった。

そうだ、人間という種の不幸はそこにあった。「我」に執着するものになってしまったがゆえに、苦痛を味わわねばならなくなった。悲惨である。

 存在するものはすべて、遅かれ早かれ悪夢を生む。存在よりは少しはましなものを、何か発明しようではないか。

問題は、存在そのものへ行く……といっても、シオランの書は体系嫌いでありアフォリズムによってなっていく。ポンと出てくる。拾い集めればいい。

 生まれたという屈辱を、いまだに消化しかねている。

こんな一文を、胸に刻む、なんなら入れ墨にしたっていい。

 『エジプト人らによる福音書』のなかで、イエスは、「女たちが子を産むかぎり、男たちは死の生贄となるであろう」と宣告し、「わたしは女の作ったものを打ち壊すためにきた」とまで極言している。

 グノーシス派の過激な真理志向に接していると、できることならさらに遠くまで行って、何か前代未聞の、歴史を石化させ粉砕するような言葉を吐きたくなる。宇宙大のネロ的所業に類する言葉を、物質の域にまで達した狂気の言葉を言ってのけたくなる。

エジプト人福音書』は外典どころか偽書であるらしい。べつの本ではマルキオンに触れている。キリスト教でも異端に行く、異端に行ったところに真実をすくい上げようとする。

 人はどんな場合にも、迫害される者の側に立たねばならない。たとえ彼らのほうに非があろうともだ。ただし、その被迫害者たちが、迫害する者らと同じ粘土で捏ねあげられているのを見損なわずに。

と、今までおれは反出生主義的な断片ばかり取り上げてきたが、このような鋭いシオランの洞察も魅力的ではある。

 「フランス人はもう働く気をなくしちまったよ。みんな、ものを書きたがるんだからね」と、私の住むアパルトマンの門番の女房がいった。自分がこのとき、老衰した文明一般に対して非難を投げつけているのだとは、この内儀は知らなかったであろう。

あるいは、こんなふうに。日本人も、インターネットというもので「ものを書きたがる」ようになったのであろうか。それとも、もう「ものを書く」やつすら減ってしまったのだろうか。

また、反出生主義に戻ろうか。

 自分の一生がなんの実も結ばなかったと嘆く者がいたら、生それ自体が、もっと悪いといわぬまでも、似たような事情にあることを思い出させてやるにかぎる。

このあたりにくると、ビアスの『悪魔の辞典』じゃないが、なにかしらのユーモアすらあるのではないか、という気にもなる。あるいは、アンチ・ユーモアかわからんが。

 存在しなかったほうがいい、という考えかたは、猛烈な反論をこうむる思想の一つだ。各人は、自分を内部から見ることしかできないから、必要な人間、不可欠な人間という風にわが身を思いなしており、自分こそ一個の絶対的実在だと、ひとつの全一性だと、全一性そのものだと実感し、また認知している。おのれの存在そのものと完全に同化した瞬間から、人は神として行動する。人は神である。

 内部から生きつつ、同時に自己の埒外に生きる。そのときはじめて、平静な心で、自分が存在するという偶発事は、まったく起こらなかったほうがよかった、と得心することができるのである。

が、ユーモアからこんな言葉も出てこないだろう。西洋の悲観主義者の落伍者が仏教に出会ってその表面を舐めただけ、と言われるのかもしれないが。

 人は動機なしに生きることはできない。ところで私は動機を持っていない。そして生きている。

こんな言葉すら前向きに見えるほどに。

 死は、失敗の好みを持ち、天分を持つような人間の庇護者である。成功を収めなかった者、成功への執念を燃やさなかったすべての者にとっては、一個の褒賞である。……死はその種の人間のほうに理ありとする。死は彼らの勝利なのだ。逆に死は、成功のために骨身を削り、ついに成功を収めた人間たちにとって、なんという残酷な否認、なんという強烈な平手打ちであることか!

しかしまあ、これである。「成功を収めなかった者」と同列に、「成功への執念を燃やさなかった者」を並べているところがいい。なんともいいじゃないか。それはおれのような人間。おれのような人間にとって死は褒賞。一方で、成功者は積み上げてきたものをぶっ壊される。こういうのをルサンチマンとかなんとかいうのかしらないが。

 生誕と鉄鎖とは同義語である。この世に生まれてくることは、手錠をかけられることだ。

というわけで、これに尽きる。同じようなことばかり、同じようなスタイルで書いているのだとしても、おれはしばらくシオランを読もうと思う。以上。

 

エミール・シオラン - Wikipedia

生誕の災厄

生誕の災厄

 

 

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小田嶋隆『上を向いてアルコール』を読む

 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

 

 おれはアルコール依存症なのか、そうではないのか、おそらくそうなのだろう。アルコール依存症は否認の病というか、おれはおれをアルコール依存症と認めたがる人間である。いつだったか、「月曜日から木曜日までは禁酒日」とか書いたような記憶もあるが、もうそんなのはすっかり忘れた。おれは双極性障害からくる、あるいは別のところからくる不安感を消すために、アルコールを摂取する、摂取する。そして、飲んで幸せになるかというと……。

 でもじゃあ飲むと陽気になるのかというと、別に明るい気持ちになるわけでもありません。酒が切れて憂鬱な状態と、意識の混濁した泥酔状態との、その振り子のあいだに一瞬だけ訪れる、ほんのちょっと気分がいい状態というのがすごく好きだったわけなんですね。当時は。

 うーん、これともちょっと違うか。抗不安薬が切れて、あるいは効かなくて、その代用品としてのアルコール。飲んだところで「いい気分」ではなく「普通」。これがおれにとってのアルコール摂取である。だいたいストロングゼロ500mlと数ショットのストレートのテキーラが必要な模様。

……というのを、「ごまかし」と指摘しているところが、おれにとっては新しい知見であった。

 危機感はあったんでしょうが、抑鬱、つまり非常に憂鬱だってことを言い訳にしているところは絶対にあるんですよ。

 アルコール依存者について「緩慢な自殺」という言い方がありますけど、あれは緩慢な自殺だっていう設定で自分をごまかしているというお話です。これは、飲む人の間にはおそらくある程度共通している心理だと思います。

「ごまかし」、「設定」、これである。

まず、「飲んじゃった」が先にある

 なんでアル中になっちゃうんでしょうね? 私もさんざん訊かれました。みんな理由を欲しがるんですよ。その説明を欲しがる文脈で、アル中になった人たちは、「仕事のストレスが」とか、「離婚したときのなんとかのショックが」とか、いろんなことを言うんです。

 だけど、私の経験からして、そのテのお話は要するに後付けの弁解です。

ふーむ、なるほど。おれの場合も、精神疾患が先にあるのではなく、「飲んじゃった」アルコールによって、酔って、大脳を破壊された人間の悲惨な末路を歩んでいるということか、という。むろん、双極性障害アルコール依存症に相関関係があるとはいえ、おれがそういう「設定」を選んでしまい、それを「弁解」として酒を飲んでいる、という見方もできる。それは面白い、と思った。

思ったところでどうしよう。アル中エリートの久里浜に行くか? 行かない。なにせおれは、「逸脱行動」をしていない。幻聴も幻覚も見ない。だいたい外で限界量まで飲むということがないから、あまり突飛なことはしない。一人暮らしのアパート、狭い部屋で一人、度数の高い酒をストレートであおり、そこで起きる最大の失態といえば「座椅子で寝てしまった」くらいのこと。たまに転んだりもするが、出血まで行きはしない。だいたい、座椅子で寝ても、明け方目を覚まし、ちゃんと歯磨きをしたうえでベッドで二度寝する。

要するに、おれには底打ち体験が足りない。酒に酔って大声で「愛馬進軍歌」を歌いながら本牧を闊歩したとか、そういうことがない。二日酔いのようななにかで午前中会社を休むとかいうことはあっても、一日バックレることもない(半日でも十分か? けど、零細企業ゆえに人がいない場合は絶対に出る)。中途半端だ。

というわけで、おれが本格的に断酒に挑むのは、おれが自身で底を打ったと思うところからだ。水すら飲めない、点滴で回復しないと動けない、そういうレベルだ。そこまで到達するまでは、おれは抗精神病薬と同じ意味でアルコールを飲み続けるだろうし、それによって生きることへの不安から逃れようと思う。そもそも生まれてきたことが間違いだったのだ。アルコールを飲むていどの間違いなんて、たいしたことがあるわけでもない。以上。

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『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』を読む

 

信仰は魂に属するが、宗教は知識である。

 ……と池澤夏樹が書いていた。おれが仏教についてアプローチするのはもっぱら後者である。善知識ではない、知識として文字を追うだけのことである。

が、おれは体系的に学問を修めたことのない高卒である。客観的に順序だった方法で学ぶ、という方法を知らない。いきなり山頂付近に落下傘で降下したかと思ったら、洞穴を見つけて入ってみたら中腹の密林に出た、少し歩くとワープスポットがあって、わけのわからない原っぱにいた、とかそんな感じである。いきなり怪しげな松岡正剛空海論から入り、鈴木大拙にはまり、吉本隆明親鸞論を読んでいたり、いまさらながらにテーラワーダについて知ったりする。

なにごとも基本からだ、そう思う。そういうわけで、本書の表紙に書いてあることに答えられないことからして、とりあえずこの本から歩みだそうかと思ったしだい。ちなみに、表紙はこう問いかけている。

般若経法華経華厳経浄土教密教……

同じ仏教なのに、どうして教えが違うのですか?

釈迦の説いた「自己鍛錬」のための仏教は、いつ、どこで、なぜ、どのようにして、「衆生救済」を目的とする大乗仏教に変わっていったのか――。

著者は原始仏教、そして律の専門家である佐々木閑。彼が講師役となり、一人の青年の問いに答えていくという対話形式になっている。一人の青年とは、著者が実際に教鞭を取る中で出会った社会人学生をモデルとしている。じつにわかりやすい。おれの日記も対話形式にしようか(しないけど)。

して、「釈迦の仏教」(本書ではブッダの直接の教え、原始仏教をそう呼ぶ)は出家し、サンガを作り、すべてのパワーを涅槃への到達に注ぎ込むという、自力の宗教であった。これが、いつから在家信者が日々の行いで仏を敬い善業を積み、あるいは積まないでも成仏できるという考えに変わっていったのか。

講師 意外に思われるかもしれませんが、じつは仏教は本来、輪廻や業といった考え方を除けば、非常に合理的かつ論理的で、超越的な神秘性や不思議な救済者といったものは存在しないと考えます。つまり、苦しみが生じるメカニズムと、それを消すための修練方法の提示こそが「釈迦の仏教」の本義なのです。そうした意味では、「釈迦の仏教」よりも、神秘の存在を認めた大乗仏教のほうが、よっぽど宗教らしい宗教だと言ってよいかもしれません。

話は前後するが、禅の本などを読み始めたときによく思い、実のところ今も半分くらい不思議に思っていることがある。仏教世界のなんとか如来とかなんとか菩薩とかそういった存在や、それをかたどった仏像というものは、なぜ必要なのだろうか、と。教えが書いてある経典は大切だろう。だが、なぜ神(のようなもの)を必要としたのか。そして、そこに信仰の場になっているのか。

まあいい、そして、「青年」の疑問は「なぜ仏教みたいなストイックなものがインド全土で流行していったのか?」というところになる。

講師 私が注目したのは「多様性」、つまり選択肢の広がりです。一つの教えが様々に枝分かれしながらも、それぞれが否定し合うことなく、仏教という一つのジャンルの中で併存できたことが、仏教が世界に拡大していった最大の理由だと考えるのです。

本書で取り扱う大乗仏教にもさまざまな宗派があるわけだが、そのように多様化していったのは、なんとアショーカ王の時代からだという。「部派仏教」だ。そのスタイルが生まれたのは「破僧の定義変更が行われた」ことによるという。破僧とは、釈迦の教えに背き、サンガの分裂行為、新しい教団を立ち上げる行為を言う。となると、考え方や解釈によって「部派」をつくったこと自体「破僧」になるのだが……。

講師 これはまさに私が研究したことなのですが、「釈迦の教えについて互いに違った考え方や解釈を持っていたとしても、同じ領域内に居住し、〈布薩〉や〈羯磨〉をみんなと一緒に行っているかぎりは破僧ではない」というのが、この時に作られた新しい破僧の定義です。 

 〈布薩〉と〈羯磨〉は月イチの反省会や会議みたいなこと。これが、アショーカ王の時代に書かれたとされる「摩訶僧祇律」に記されているという。この大変化があったことで、仏教がときに世界三大宗教にまでなったと著者は言う。

なるほど、しかしなんというか、平和な話である。キリスト教のように公会議を開き、なにが正統でなにが異端かを白黒つけて展開していくのとは、趣が違う。むろん、キリスト教にも大きな宗派、そしてその下やそれ以外のところにさまざまの宗派があるのだが、そこにはどうも闘争を勝ち抜いていた感がある。今、マルキオン派の教会に入信することはできない。いや、宣言すればいいのかな。ようわからんが。

まあそれはともかく、そこからさらに大乗仏教の誕生へと話は進む。大乗的な発想は、在家信者の中からではなく、いくつかの部派グループの中から多発的に生まれてきたのではないか、というのが著者の見解。そして、在家でも悟りの修行を積むことができ、さらには誰もがブッダになれるという新しい理想が生まれてきたという。「釈迦の仏教」で修行者が到達できるのは阿羅漢まで。そこをこえて「成仏」、ブッダになることへの道まで開いてしまった。

なぜか。一つには、大乗仏教が起こった時代背景があるという。インドを統一したマウリヤ朝が滅び、異民族が流入してきて乱世になる。そこで人々は自分の身を護ることに精一杯で、サンガを養う余裕がなくなってきたのではな……という推測があるらしい。このあたりはまだ研究すべきところらしい。

 

般若経

話は経典に移る。まず、『般若経』。われわれがよくその名を聞く『般若心経』は、『般若経』のエッセンスをコンパクトにまとめたものという。禅宗系、密教系でよくとなえられ、浄土真宗日蓮宗法華宗はとなえない。誕生は古く、西暦の紀元前後とされる。

メーンとなる部分は「すべての人は過去においてすでにブッダと会っていて、誓いを立てている」。すなわち、われわれはすでに誓いを立てているのだから、菩薩だ、ということになる。そして、もう菩薩なのだから、日常生活の中で善い行いを積み重ねれば、悟りへのエネルギーへとなり、やがてブッダになれる、という考え。

……は、「釈迦の仏教」とは矛盾が出てくる。「釈迦の仏教」では善行も「業」であって、その「業」を断ち切るところにある。

だからお釈迦様は、じつは「輪廻を断ち切り涅槃を目指すには、この世では善いことも悪いこともしてはならない」というのです。業を作るような、自意識に根ざした行動をとるな、ということです。善いことも悪いこともせずに、ひたすら瞑想修行に励んで業のパワーを消して輪廻をとめること。それこそが「釈迦の仏教」の本質というわけです。

「わたしはきわめて単純な道徳、誰にも悪いことも善いこともしないという道徳を守っている」と書いたのはポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアだが、ペソアは仏教の影響を受けたのだろうか……というのは置いといて、そういうことだ。つまり、矛盾が生じている。じゃあどうする。そこで「空」を持っていた。「空」は「釈迦の仏教」にもあったが、『般若経』の説く「空」はべつものという。

実体というものが存在せず、構成要素のみが実在する(諸法無我)、というところまでは同じ。だがお釈迦様が存在するとした「五蘊」などの構成要素も「実在しない」、そしてそれゆえに「すべてのものはうつりゆく」という諸行無常も否定する。これでは要素と要素を結んでいた「因果」も存在しないことになり、この世のありようは説明できない。

そこで「空」。

そこで『般若経』では、「この世はそうした理屈を超えた、もっと別の超越的な法則に酔って動いている」と、とらえました。この人智を超えた神秘の力、超越的な法則こそが『般若経』でいう「空」なのです。

さらに、『般若経』はお経そのものをブッダ法身とした。そして、次のような仕組みを内包しているという。

青年 写経という行為は、『般若経』をより広める目的で、のちの時代に誰かが考案したものなのですか?

講師 これが興味深いところなのですが、『般若経』には、そういうことがあらかじめ書かれているのです。「『般若経』をとなえなさい、書きなさい、広めなさい」という自己増殖のためのプログラムのようなものが、お経に最初から仕込まれている。だからこそ、どんどんお経がコピーされて広まっていくことになったのです。今も書店に「『般若心経』・写経セット」などと題して、『般若心経』と写経用紙が一緒になったものが多く売られていますが、現代になってもまだ、当時作られた自己増殖プログラムが機能しているというのは驚くべきことだと思います。

こうして、『般若経』は今日にいたるまで増殖し続けてきた。でも、「空」という超越的な力とはなんだろうか。著者は『般若経』それ自体が「呪文(マントラ)」であるという。それゆえに、出家修行という高いハードルを要する「釈迦の仏教」では救いきれない人々を救うものになった、そのための神秘性であり、存在意義がある、という。

 

法華経

「南妙法蓮華経」の『法華経』。『法華経』は『般若経』にモデルチェンジを加えた、進化版だという。日蓮宗法華宗系のほか、天台宗融通念仏宗でも重要経典とされている。

法華経』は「諸経の王」と呼ばれる、らしい。なぜか。インドから北方シルクロードが開通するまで時間があった。そして、一気に中国に仏教が流れ込む。「釈迦の仏教」も大乗仏教もだ。そして、その混乱の中で、より新しいものである大乗仏教が重視されるようになる。なぜならば、新しい教えは過去の教えを下に見るように説かれているから。そして、「誰でも仏になれる」という教えを強調した『法華経』が最上位に見られるようになる。

その流れは朝鮮半島を通り、日本にたどり着く。たどり着いて、比叡山延暦寺でも仏教の教えを統合するものとして『法華経』を位置づけた。比叡山日蓮法然親鸞栄西道元らが修行した場所でもある。そのまま『法華経』を取り入れたにしたではないにせよ、基本として叩き込まれたものである。ゆえに、日本の仏教のベースになった経典ともいえる。

して、『法華経』が『般若経』に付け加えた一番の機能はなにか。「一仏乗」だという。「すべての人々は平等にブッダになることが可能である(衆生成仏)」。ただ、これ自体は『般若経』にも説かれていたこと。

だが、『般若経』では三つの修行方法(三乗)を説いていた。「声聞乗」(出家修行の道)、「独覚乗」(一人で修行)、「菩薩乗」(自らを菩薩と認識して日常で善業を積む)。『般若経』では「菩薩乗」を第一としていた。

それをひっくり返して、というか、ひとまとめにしたのが「一仏乗」という。ただ、『般若経』の「菩薩乗」と「一仏乗」が同じものであるかどうかというのは議論の余地があるそうだ。

でもって、発明したのが「初転法輪」の書き換え。梵天勧請ののち、最初の説教をする。が、『法華経』では舎利佛(シャーリプトラ)との会話の中で「最初の説教は方便であって、本当の真理は別のところにある」と切り出し、「今まで私は君たちに阿羅漢を目指しなさいといって、ブッダになれるとは言ってこなかった。しかし、実際にはすでに過去において君たちはブッダと出会っていて、菩薩になっているのだ」という。

いずれにしても、前に存在していた「釈迦の仏教」や『般若経』を無化して、一段上の教えを示すためには、そうやって話を作り変える必要があったわけです。「方便品」には「一仏乗を信じない者は地獄に堕ちる」とまで書かれていますが、こうしたくだりを見ても、『法華経』が「なんとしてでも前に存在したお経を超えなくてはならない」という強い意図をもって作られたものであることがわかってきます。

 このように、オリジナルの教えを再解釈し、上乗せしていくのは『法華経』に限らず、大乗仏教の経典によく見られる手法という。また、法華経では「法華七喩」というたとえ話が盛り込まれていて、より人々にわかりやすく伝わる工夫がなされているというし、さらには現世利益まで盛り込まれている。

そんな『法華経』の特徴として、布教活動が熱心な……感じがあるよね、と。しかしそれも、「迫害を受けていることが、『法華経』の正しさの証拠だ」というのがプログラムされているという。日蓮の法難エピソードもそれにあたるわけだ。

そしてさらに、『法華経』には「久遠実成」という教えが示されている。「お釈迦様は永遠の過去から悟りを開いたブッダとして存在していて、実は死んでおらず、私たちのまわりに常に存在している」。なんだそれは、汎神論か。ともかく、それにより、常にブッダがこの世界にいるとすれば、いつでもブッダを供養することができ、成仏へのスピードもアップするというもの。

……というようなところで、「大乗仏教非仏説論」を説いた富永仲基という江戸時代の学者なんかもいたらしい。

 

浄土教

さて、今度は「南無阿弥陀仏」の浄土教

浄土教とは、一言で言えば「阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土へと往生する」ことを説く教えのことです。阿弥陀様のパワーを信じることが基本となるため「阿弥陀信仰」とも呼ばれています。

末法思想と荒廃する社会、そういうものを背景に、法然親鸞らが説いていった。庶民に爆発的に広まり、現代でも浄土真宗の信者数がもっとも多い。

般若経』や『法華経』は「釈迦の仏教」からするとかなりスピーディになったが、結局は「お経をとなえる」必要があった。が、浄土教となると、それすらもカットして「南無阿弥陀仏」と称えればいい。

で、そこに必要な考え方が「パラレルワールド」の概念。前の二つの経典が時間軸を考え、過去生でブッダに出会い……としたのに対して、浄土教ではパラレルワールドを想定した。われわれは多世界の一つを生きていて、べつの世界にはブッダのいる世界、「仏国土」がある。死んですぐに「仏国土」に生まれ変わればすぐに菩薩修行がスタートできる、と。そして、「別のブッダがいる仏国土へも自由に行き来できる装置」が完備された仏国土を極楽浄土とし、その中心に阿弥陀様をおいた。

なぜ阿弥陀様なのか。阿弥陀様は「もしブッダになるための修行を終えたとしても、その私の仏国土が、どこよりも素晴らしいものになるまでは、わたしはブッダになりません」と誓ったからだという。阿弥陀様は、菩薩として修行を始めたそのときから、すべての生き物の成仏を願った、ということだ。

では、浄土教でのお釈迦様の扱いは?

浄土経典の中のお釈迦様は、「君たちは知らないようだが、じつは阿弥陀様という偉いお方がおられる素晴らしい世界があるのだ」ということを弟子に伝える「伝令」の役回りで、直接の信仰にはなっていません。 

そうだったのか。いずれにせよ、大乗仏教の時代には「お釈迦様だけが唯一のブッダ」という考え方が薄れ、阿弥陀如来大日如来薬師如来……と、ブッダは増殖していった。

で、浄土教といえば「他力本願」ということになる。親鸞にいたっては「すでに私たちは極楽に行くことが約束されているのだから、念仏は願うためではなく感謝のために称えるのだ」というところまで行く。こうした浄土教も、ポンと鎌倉時代に生まれたものではなく、古い大乗経典である『阿閦仏国教』を元にしているという。

とはいえ、ずいぶん「釈迦の仏教」から遠いところに来たよな。

青年 本来の趣旨とは違った方向に向かったことは確かですよね。大乗仏教のそもそものゴールは、悟りを開いてブッダになり、みんなを救ってから涅槃に入ることだったはずなのに、それが目的でなくなったとすれば、いったい何を目的とするようになったのですか?

講師 もちろん、最初は「悟り」が目的であったことは間違いありません。しかし、やがてその目的は「救われること」に変わっていきます。ここで言う「救われること」とは、悟りを開いて涅槃に至るのではなく、楽しくきらびやかで不自由のない生活を永遠に続けられるようになることです。『無量寿経』や『阿弥陀経』には「極楽浄土とは、苦しみも悲しみもない世界であり、すべての人々は宝石に飾られた宮殿に住み、究極の楽園生活をおくる」といったことが書かれていたため、人々はその部分ばかりに注目するようになり、いつしか極楽にたどり着くことが最終目的であると考えるようになったのです。

 

華厳経』・密教

奈良の大仏盧舎那仏像、「華厳経」の象徴として造立されたもの。奈良時代には国家仏教として成立していた。

で、『華厳経』はどのような形で「ブッダと出会う」世界観を示していたのか。

華厳経』は次のようなアイデアを考えました。「別の世界にいるブッダが移動できないのなら、ブッダが自らの映像を私たちの世界に送ってくれると考えればよいではないか」と。

宇宙には様々なブッダがいるが、すべては毘盧遮那仏に収束される。各世界のブッダ毘盧遮那仏に接続し、それぞれのブッダは別の世界のブッダに接続し、ネットワークを構築する。このネットはすべて毘盧遮那仏であり、ゆえにブッダがヴァーチャルな映像であったとしても、それはリアルなものである、と。

これすなわち「インドラの網」、「インドラ・ネットワーク」、帝釈天の宮殿の網飾り。……これはおれが仏教のイメージの中で一番好きなものだ。一即多・多即一。永遠の映り込み。われわれを構成する一つ一つの細胞にも、一つ一つの宇宙が存在する。

ただ、『華厳経』には悟りについての方法が説かれておらず、華厳宗も衰退していった。とはいえ、この思想は日本人古来のアニミズムとも通じ合ったものではないかと著者は述べている。なるほど。

で、密教密教大日如来を最重要仏とする。もとはサンスクリット語で「マハーヴァイローチャナ」なので、華厳の毘盧遮那仏と同じ仏様。有名な二つの曼荼羅図も、やはり華厳の影響を受けているという。そんでもって、密教には具体的な修行方法とゴールが示されている。最終目的は「即身成仏」。べつにミイラではない。生きたままに仏の境地に至ること。このあたりは『空海の夢』で読んだりしたかな。

 

インドにおける仏教の衰退

と、最後にこの話題が出てきた。おれが気になって、本を読んだりもしたテーマだ。その本ではカーストを否定するイスラム教と被ったから、みたいなことが書かれていたが……。

著者は、インドにおける仏教衰退の原因は、仏教自体にあるという。大乗仏教化していくことにより、ヒンドゥー教の梵我一如に(ヒンドゥー教仏教徒は違い自我、アートマンを永遠不変のものと考え、そこが無我の仏教とは違うのだが)近づき、被ってしまった。

講師 ……『華厳経』とほぼ同じ時代に作られた大乗『涅槃経』では、よりヒンドゥー教に近づいていきます。この経典に登場するのが「如来蔵思想」で、すなわち、「もともとも私たちの内部にブッダは存在していて、私とブッダは常に一体である」という世界観です。『華厳経』が「ブッダの世界の中に私は存在している」と考えたのに対し、大乗『涅槃経』ではついに「ブッダは私の中にいる」と言うことになるのです。

青年 「自己の内部にブッダがいる」ととらえてしまうと、ヒンドゥー教の「梵我一如」と完全に同じになってしまうではないですか。

講師 そうです。「如来蔵思想」を持った時点で、インドの大乗仏教アイデンティティを失い、ヒンドゥー教と同化する方向に進んで行ったのです。歴史の教科書などには書かれていませんが、インド仏教衰退の理由は仏教そのものにあったというわけです。

うーむ、この推論のほうが面白い。

 

おわりに

で、あとは禅宗の話とか、鈴木大拙の話とかあったけど、時間切れなのでここまで。最後に、著者の「おわりに」から。

仏教は長い歴史の中で、他の宗教には見られない極端な多様性を持つようになりました。独自性を失った芯のない宗教になっていったと見ることもできますが、別の見方をすれば、どのような状況にある人に対しても、なんらかの救済法を提示できる、万能性のある宗教になったとも言えます。宗教の存在価値が、私たちを生きる苦しみから救い出すことにあるなら、多様な顔を持つ大乗仏教もまた、その真理のエッセンスを取り出すことでいくらでも効能を発揮することができるはずです。

 

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おまえもイヌにしてやろうか - 深町秋生『ドッグ・メーカー』を読む

 

  カラオケのモニターを顎で指した。

 「気晴らしに一曲歌っていったらどうだ」

 木根は首を横に振った。

 「ド下手なんだ。あんたの前で喉を披露したら、そいつを録音されて脅しのネタにされそうだし」

 「そうするつもりだった」

 木根は泣きながら笑った。

 しばらくウイスキーを舐めながら、やつのグチにつき合った。イヌの頭をなでるのも仕事のうちだ。脅し一辺倒では飼いならせはしない。

主人公は手段を選ばぬ一匹狼。元は公安三課、そして組対の凄腕刑事。今は人事の監察官となっている。「ドッグ・メーカー」とは情報提供者を作るのに長けたことからつけられた呼び名。警察(カイシャ)内に犯人がいるかもしれない警察官殺しを追い……という話。

深町秋生と警察小説。今度は警察の中の中である人事一課が舞台となっている。警察の警察、イヌのイヌ。そこで、主人公は次々に首輪をかけ、イヌを作っていくが、と。

おれの親戚には警察官の親子がいて、いまはどちらとも辞めてしまったのだが、まあ彼らから聞く話と、警察小説、符合するところを読むたびに面白くて仕方ない。むろん、現実にこれほどの事件があるというわけじゃあないけれど。……ってのは前にも書いただろうか。

というわけで、読みだしたら止まらない一冊。が、しかし、おれはふと思った。これ、イヌにされた側が主人公だったらどうだったろうか、と。主人公の立場はいきなり瀬戸際、飼い主の言うことを聞きながら、首輪を外す隙をうかがう、出し抜こうとする、だが相手は名うての「ドッグ・メーカー」。さらにその「主人」を狙う巨悪の存在……。でも、なんか主人公が(物理的に?)首根っこ掴まれてるのは『卑怯者の流儀』でもあったっけ。ともかく、なんとなく思いついただけ。しかしまあ、この小説の最初のイヌが主人公だったら、読者は感情移入もしにくいことだろうが。

つーわけで、ともかくノワール好き、深町秋生好きなら読んで損はない一冊。……いずれ、深町ポリス&アンダーグラウンドオールスター大集合とかやってくれたりするんだろうか。いや、そんな夏休みの戦隊モノ映画でもあるまいし、とかね。

 

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海外詩文庫『ペソア詩集』を読む

 

ペソア詩集 (海外詩文庫)

ペソア詩集 (海外詩文庫)

 

「アルベルト・カエイロは私の師である」。この言葉はペソアの全作品の試金石である。更に付け加えて、カエイロの作品こそペソアの肯定する唯一のものである、と言うこともできるだろう。カエイロは太陽であり、レイスも、カンポスも、ペソア自身も、その周囲を公転する。彼ら三人の中には、ささやかながら否定的もしくは非現実的な要素がある。レイスは形式を、カンポスは感覚を、ペソアは象徴を信じている。カエイロは何も信じていない。ただ存在する。太陽は自足した生命である。

――オクタビオ・パス「自分にとっての他人」

というわけで、ペソアの詩集、いや、フェルなど・ペソアと彼の異名(エテロニモ)であるアルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの一味(コトリー)、あるいは結社(セナークル……アントニオ・タブッキいわく)の詩集である。詩集といっても、このような形でペソアが編集し、発表したわけではない。膨大な量の遺稿から発掘され、彼らの代表作を集めたものである。

以下、引用は基本的に詩の部分。

ペソア詩篇

(わたしは何ひとつ…)

わたしは何ひとつしたことがない そうなのだ

これからもしないだろう だが 何もしないこと

おれこそわたしの学んだこと

すべてをする 何もしない それは同じこと

わたしとは なれなかったものの亡霊にすぎない

 

人は見捨てられて生きている

真理も 懐疑も 導師もない

人生はよい 酒はさらによい

愛はよい 眠ることはさらによい

「人生はよい 酒はさらによい」。いいことをいう。しょうもないところを引用するな? そんなこというな。おれには「詩人はふりをするものだ/そのふりは完璧すぎて/ほんとうに感じている/苦痛のふりまでしてしまう」というところから、「<わたし>ではないなにかが感じているもの、そのかんじられているそのものの顕現、表現でなく顕現の顕現……」(澤田直)とかいうむつかしいことはわからないのだから。ただおれはペソア・ウィルスに感染して、「酒はさらによい」という一言を我が物のように言うだけなのである。それに、人生がよいものかどうかはわからんのだし。

 

アルベルト・カエイロ詩篇

詩集<羊飼い>(抄)

考えることは 不快だ 強風で

勢いをます雨のなかを歩くときのように

……

わたしはキンセンカを信じるように 世界を信じる

それが見えるから しかし世界について考えはしない

考えることは理解しないことだから……

世界は考えられるようにはできていない

……

さて、ある日突然ペソアに舞い降りた、取り憑いた、現れた……なんといったらいいのだろうか、ともかく、彼の「師」となった(とペソアが言う)カエイロ。子供のころより異名者をつくり続けていたペソアにとって、特別な存在。必要であった存在。それがカエイロ。異教徒ではなく異教そのもの、というカエイロ。子供の目、見るということを……なんというのか、老師のような存在。あるいは、自然そのもの、永遠の子供……ようわからんよね。でも、一味の、結社のグルなのである。メタル・グル・イズ・イット・トゥルー。

 

リカルド・レイス詩篇

(恋人よ ぼくは祖国より…)

恋人よ ぼくは祖国よりバラを選ぶ

そして木蓮の花をさらに愛す

栄光や美徳より

 

人生がぼくを見放さないかぎり

ぼくは人生が通り過ぎるにまかせる

自分が変わりさえしなければ

 

すべてに無関心な者にとって

誰が勝ち 誰が負けようがどうでもよい

大切なことは 暁がつねに輝くこと

 

毎年、春とともに

新しい葉が芽生え

秋には落葉すること

……

リカルド・レイスは洗練された詩を書く禁欲主義者であり、自らを偽装するロマン派であり、古代風景を描く近代的な異教徒であり……って、やっぱりようわからんよね。

(わたしが憎み嫌うのは…)

わたしが憎み嫌うのは キリストよ おまえではない

おまえのうちにも わたしはより古き神々を信じる

彼らより重要だともそうでないとも思わない

ただおまえのほうが少し新しいだけ

……

うん、異教徒的やね。して、おれが好きなのは次の詩だ。すべて引く。

(わずかなものを望め…)

わずかなものを望め おまえはすべてを手に入れるだろう

何も望むな おまえは自由になるだろう

自らに対する愛ですら

多くの要求をなし 自分をさいなむことになる

ペソアお得意の箴言のような詩。最初の二行を背中に背負って生きていきたい。それは自分をさいなむことになるのだろうか。

(おまえの運命に…)

……

ひとりで生きることは甘美だ

単純に生きることは

どんなときでも 偉大で 高貴だ

苦しみは 祭壇に捨てよ

神々への奉納として

 

人生を遠くから眺めるのだ

けっして問い質してはならない

人生はおまえに

なにも語りはしない 答は

神々の彼方にある

 

ただ 心静かに

おまえの心の底で

オリュンポスをまねぶのだ

神々が神々なのは

自分のことを考えぬから

これなんか、いいよな。「神々が神々なのは、自分のことを考えぬから」。このあたりな。あとは、引用しないけど、「(こんな話を聞いたことが…)」のチェスの詩とかさ。あ、( )は詩の冒頭部分であって、タイトルも番号もなかったから、便宜的にそうしているもの、だと思う。

 

アルヴァロ・デ・カンポス詩篇

リスボン再訪 1923

いや 何もいらない

何もいらんと言ったじゃないか

結論なんて くそくらえだ!

死ぬこと以外に結論なんてあるもんか!

美学なんてまっぴらだ!

道徳なんて 口にしないでくれ!

……

アルヴァロ・デ・カンポスはわりと暴れん坊な感じである。エキセントリックで獰猛だ。獰猛な造船技師だ。わかりやすく近代的でもある。

煙草屋

……

おれは煙草に火をつけ これから書く詩を考え

煙草のうちで あらゆる思考からの解放感を味わう

おれは自分の歩む道であるかのように 煙を目で追い

感覚が研ぎ澄まされ 有能になり

あらゆる思弁からの解放を味わう

形而上学は不機嫌の結果にすぎないという意識を

 

それからおれは椅子のうえで伸びをして

煙草を吸いつづける

運命が許すかぎり おれは吸いつづけるだろう

 

(もしクリーニング屋の娘と結婚できるものなら

おれは幸せになることもあるだろう)

それから おれは椅子から立ち上がって 窓辺に行く

 ……

 代表作である「煙草屋」。なにかこう、現代的ですらあるというか、いや、詩の歴史をしらんのでなんともいえんのだけれども。(もしクリーニング屋の……)は好きなところだ。おれはそういうところが好きなのだ。

勝利のオード

……

おおい デパートのファサード

おおい ビルのエレベーターよ

おおい 内閣改造

国会 政治 予算報告者

粉飾予算よ!

(国家予算は一本の樹と同じくらい自然で

国会は蝶と同じくらい美しい)

……

このあたりなど、ようわからんが楽しい。かれが「おおい」と呼びかけるもの、機械、近代、そういったもの。最後はこう終わる。

おーい やーい おーおーおーおー

Z-z-z-z-z-z-z-z-z-z-z-z-!

ああおれはなぜ あらゆるひと あらゆる場ではないのか!

zの数に間違いはない、と思う。最後の一行、これがカンポスの偏在志向というものなのだろうか。まあそうなのだろう。

現実

……

わたしは頭のなかで再構してみようと努める、

あの頃のわたしを 二十年前このあたりを通っていた

 わたしが

どんなであったかを……

憶えていない 思い出せない。

……

 とまあ、そんなところで。

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