ほんとうは悲しい『よつばと!』

よつばと! 10 (電撃コミックス) 『よつばと!』の10巻を買った。あいもかわらずいい漫画だと思う。などと身も蓋も中身もない書き出しくらいしかできないし、それに尽きるところもあるが、尽きぬ思いもないわけではないのでいくらか書く。
 どこがいいのかといえば、出てくる人々がみなよい人であっていいのである。とくにでてくる女性すべてがいい。どこかの宗教で自爆テロの結果行く天国がこのようなものであると説明されたら、そういうものかと思いそうなほどである。たとえば、三姉妹のうちだれがいいかといえば、とうぜん自分と同じ型の自転車(ルイガノMV-1)に乗るあさぎさんであるし、あるいは突飛な空振りっぷりが魅力の次女もいいが、やはり強情なそぶりを見せるところがかわいいえなということになるのかもしれない。それらを差し置いてやはりみうらがかわいいなどと言い出すと、俺の少女好きが露見するので言わない。言っているか。ただ、俺の守備範囲は全盛期の小坂くらい広い。話を逸らそう。
 そういうわけで、ほんとうは怖い、怖いというとちと違うかもしれない。「寂しい」、「悲しい」よつばとというべきだろうか。それについて書く。どこがそうなのかというと、遊びに遊ぶよつばやえなを見るとーちゃんなどの姿である。いちばんはっきり現れているのは気球の回のとーちゃん、とーちゃんとあさぎなどだが、そのところが、どうもおっさんとしてしんみりくるところがある。
 よつばとえなはまだまだ没頭できるのだ。遊びというか、全世界に没頭できる。その境地がある。大人になると失われる。

霞立つ長き春日を子供らと手まりつきつつ今日もくらしつ

 という良寛の歌があって、こうやって子供と一日中遊ぶってのはただごとじゃねえんだって吉本隆明が言ってたと思うけど、そういうあたり。そこのところの諦観がある。
 ただ、言うまでもないがよつばのとーちゃんは世の「大人」と比べたら大人っぽくないタイプの人間だ。童心そのものを隠そうともしない人間として描かれている。しかし、その彼にしても、寂しげな背中を見せるところ、そこになにかの消息がある。年齢的にあさぎももうとーちゃんの側だろう。風香はといえばなんとなく中間のあたりという気もする。いや、それは低くとりすぎているか。えなとみうらももうぎりぎりか、もうそのままではありえないような気がする。ただし、まだまだ入りやすいところがある。長き春日をエンドレスエイトできる歳でもある。むろん、大人にだってそんな日はある。あるが、短いし、すぐに自省のようなものがでてくる。失われたものの話である。
 独身で子供ができる予定などありはしない俺の言う話である。もしも子を持つ人が見たら、またとーちゃんの背中にべつのものを見出すやもしらん。しらんが、俺にはどうもそう見えてたまらず、とーちゃんもはやくデジカメを買うべきだし、その際は高速オートフォーカスフルHD動画を撮れるα55あたりがいいのではないかと思うが、やはりミラーレスの方が取り回しがいいのではないかなどとも思う。
 カメラはどうでもよろしい。そういうわけで、どうにもぞくりとする。子を持つという、ある意味年相応とされてきた体験を持たず、ただいたずらに歳をとっていく自分の人生についてである。あるいは、いつまでも子供気分の抜けぬ俺の人生についてである。俺は幼稚園に入った瞬間に人生が台無しになったと思う類の人間であって、まちがっても過去に戻りたいとは思わない。思わないが、幼稚園以前の世界、なにもかもが融通無碍であったかもしれない世界、それがよつばの過ごす世界であるとすれば、そこに戻りたいという気もする。ただし、戻ったところでやがては大きくなる。さて、まったく大人になる方法も、良寛になる方法もよくわからない。

関連______________________