(写真は全然内容と関係ないです)
コロナ騒動の直前にできた飲食店、きれいな店舗に訪れる人もおらず、落ち着いてきた近頃もいつもガラガラ。なんだかかわいそうだ。で、意を決して入って食べてみたら、これが期待はずれもいいところ。いや、この値段でこれだと、再訪は絶対にねえなって。そんなときの、なんかなんだろう、この気持ち。
— 黄金頭 (@goldhead) 2021年11月22日
ネットで何かを書いて公表するということは、だれかを傷つけるということと同義だ。だれかに嫌な思いをさせ、憎悪をかきたて、悲しませることだ。
それでも、なお、おれは書かずにはいられない。書いて公表せずにはいられない。おそろしい宿痾だ。それでも、それを承知でまた今日も「公開する」ボタンを押す。
最初から傷つける相手の、自分に憎悪を向けてくる人間の数を想像するな。
最初から、自分の味方になってくれそうな人間の数を想像するな。
それはそうにしても、明らかにだれかを傷つけてしまうことは、やはり書きにくい。書けない。それがたとえば最初のツイートのようなことになる。本当に淡々と日記を書いている人ならば、淡々と「ある飲食店(実名)でものを食べたが、期待はずれで美味しくなかった」と書けるだろう。ただ、おれにはそこまで淡々としていない。なんとも言えないが、さくっとそれは書けない。
それには、その店の店員さんの良い接客もある。あの店員さんの目になぜかとまってしまって、嫌な思いをさせたくないと思う。あるいは、おれのような影響力のない人間の一言でも、ネットではちょっと広がってしまうこともある。おれのなかではそうであったことが、知らない人にそうであるとして広まってしまうことは、あまりよいことではない。実際に食べてから言ってくれ。なにも食べ物に限った話ではない。
というわけで、おれは普段の日記のように、「どこそこであれを食べたが期待はずれだった」とは書けないな、と思った。覚悟が足りないな、という気もするが、そんなものだろうという気もする。「どこそこ」が、たとえば「マクドナルド」とか「すき家」とか「100円ローソンの弁当」とか「日清食品の企画商品」などであれば、わりと平気で書くこともあるだろう。大企業のチェーン相手なら、まあいいかという意識。それも突き詰めれば、その担当者を傷つけることになるかもしれないが、やはり単独店舗のよくない評価をするのと比べて、自分の中では違いを感じてしまう。そこに弱さを見てくれて構わない。おれは弱い。
上記の店について話を戻すが、気になってはいた。いたのだが、地元を中心とした食レポをする個人サイトがあまりよい評価をしていなかった。それを見て、なかなか行く気になれなかった、というのはある。が、行ってみたら、それが正しかったというような。それが、食べログなどで見てみれば、好評価が並んでいて、そのあたりの違いもあるのだな。あるいは、その個人サイトの人と、おれの舌が世間とずれているだけかもしれないのだが。
というわけで、ぼくらは見た目に比べてがっくりするくらい味気のないスープカレーを食べたときの顔をして毎日を生きていくしかないのかもしれない。スープカレーというのは、スープカレーへの単なる偏見である。
金を払って、飯を食う。食って、その飯の感想を述べる。それすらもなかなかに難しい。身近な人に、「あの店は、そんなによくないっすよ」とは言えるかもしれない。でも、それをだれが見ているかわからないところに公開するのは、難しい。その距離感を持つことは、おそらくは広く現代を生きる人間に求められるところかもしれない。あるいは、なにかを書いて、公表したいという奇特な人間だけに求められることかもしれないが。