『闇の左手』アーシュラ・K・ル・グウィン

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 かといってゲセン人を“あれ”という代名詞で考えることもできない。彼らは中性ではないのだから。いうなれば可能性を有するもの、あるいは完全体だ。ソメル期の人間を指す代名詞はカルハイド語にはないので、超絶的な神に対して男性名詞を使うのと同じ理由で“かれ”という代名詞を使うことにする。中性代名詞や女性代名詞よりは定義があいまいで、より特定的ではない。しかし頭の中で“かれ”という代名詞を使っていると、いっしょにいるカルハイド人が男でなくおとこおんなという事実をともすれば忘れてしまう。

 本作は両性具有人類社会の星を舞台としている。その星に、文明が進んだ惑星連合のようなものから、たった一人の使節が訪れ……というもの。『幼年期の終わり』でいえば、オーバーロード側が人類。が、あっちとは違って、こちらの主人公は丸腰で一人っきり。宇宙船と無線機は見せるけど、その程度。そういう方針。
 少しジェンダー論くさいといえばそうなのかもしれないが、とにかくSFとして一級品なので、その点で毛嫌いして読まないのは損だろう。ル・グウィンを読んでみようと思ったきっかけは、言うまでもなくジブリの『ゲド戦記』を巡る騒動(?)から。その点では宮崎吾郎などに感謝したい。
 SFにおける両性具有種といえば、萩尾望都のあれを思い出す。あれを初めて読んだときは、その発想けっこうどきりとしたものだった。ああ、しかし、そうだ、こういう設定は少女漫画に向くかもしれない。頭の中で彼らゲセン人をうまく思い浮かべることができない。地の文でも「彼」なので、やはり男のイメージとなる。その上、設定が黒人系なので、ますますどう想像していいか、この黄色からはちょっとわかりかねる。いや、文句を言わせてもらえば、やはりきちんと両性具有者を表現できているとも思えない。本来、発情期にどちらかの性に分かれるというはずなのに、「男が女になる」という風な印象が強い。それが狙いといえば狙いなのかもしれないが、あくまで「去勢された男性の世界に感じる」。おまけに人物の描写が曖昧で、何歳ぐらいなのかすらよくわからない。これには参る。これから読む人は、多少低めに見積もっておいてもいいかと思う。
 ところで、生物的に見れば、「性の明確な区別を常時もっている動物は、自然界ではむしろ限られている。」(id:goldhead:20060322#p1)とかで、広く生命として考えれば、このゲセン人の方が一般的なのかもしれない。年中発情してるのもそんなに多くなさそうだし。
 ジェンダー論といえば、やはりこれはある種の思考実験的なところが強く、それが面白い。そこから人々の生活や文化、文明、世界観をかっちり作り上げている。そのうえ、<冬>の惑星としての特性もばっちりだ。こういう土台がしっかりしていて細かいほどSFはいい。ただ、性があらかじめ分かれている世界で女性は……という内容に関しては「銀河をつなぐ同盟までできている世界で、いまだにそれはないだろう」とか思ってしまったが。が、まあ、本作が書かれた年代を考えてみれば、致し方ないことか。そのときに比べれば、今の方がジェンダーフリーなのだろう。名作と言われるSFでも、宇宙旅行ができるのに、調べものをするために図書館を訪ねなきゃいけないなんてケースもあるし、こういうのはむずかしいところだ。ある部分において、現実がSFを追い抜いてしまう。
 まあ、ともかくとしてこれは一気読みするだけの面白いものであった、と。多少陰謀云々のところに物足りなさがないわけでもなかったが、まあ、俺にはシフグレソルが足りないだけなのかもしれない。章によって語り手、書き手が変わり、文体(翻訳文体)もそれに応じて変化させる芸の細かさ。これはよかった。そして、ところどころに入る神話、伝承、民話的なあたりが、この作者の真骨頂だろうか。これよりずっと後の『キリンヤガ』(id:goldhead:20050810#p1)など思い出した。
 この世界、ハイニッシュ・ユニバースとやら、ほかにも名作があるので、そっちもあたってみよう。『ゲド』はもうちょっと待てばガンガン安く出回るのではなかろうか。
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 ものすごく久しぶりに本を読んだ(http://d.hatena.ne.jp/goldhead/archive?word=%2a%5b%b4%b6%c1%db%ca%b8%5d)。八月のカポーティ以来か。いや、本当は間にもう一冊あったけど、メモったファイルがどっかいってそのままだ。やっぱりSFはいいな。門外漢でも、「ネビュラ賞」と「ヒューゴー賞」の文字を頼れば面白いものに当たれるし、また、一時サイバーパンクばっかり読んだときみたいに集中して、読んでみようか。もう少し暇になったら。