シオランの『カイエ』を半分読んだ

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カイエ、というのはフランス語で雑記帳、メモ帳、ノート、そんな意味である。シオランの『カイエ』。未発表の雑文がまとめられたものだろうと思って、借りた。書庫から出してもらった。出てきたのは分厚い辞書のようなものだった。「訳者あとがき」までで1012ページあった。おれはたじろいだ。

が、読み進めるのはそれほど苦ではない。なにせ、アフォリズムの名手による、覚え書き、メモ、日記なのである。現代風にいえばツイート、とでも言うべきか。すらすらと読む。おれの知らない固有名詞が出てきたら、飛ばす。そんなふうにして読んだ。

……読んだが、半分くらいで止まった。具体的には478ページで止まった。とりあえず、ここまで読んで気になった箇所を書き留めておきたい。ちなみに、シオランはここにまとめられたノートについて「出版するなよ、絶対に出版するなよ、破棄しろよ」みたいなことを言い残していたらしいが、それはダチョウ倶楽部のそれと同じではないかと、おれは思っている。

 私の生きる能力の欠如も、稼ぐ能力の欠如もともに見上げたものだ。私には金銭は身につかないのだ。四七歳になったというのに、一度も収入というものを得たことがない!

 金銭の形では何も考えられないのだ。

この『カイエ』、1957年あたりから書き始められたものだ。シオラン、すでに47歳。それでも、まだ人生に迷っているあたりがいい。収入を得たことがないというのも大げさだろうが、そういう心持ちでいるおっさんである、というところがいいじゃないか。

 成功以外に、人間を完全に駄目にしてしまうものはない。〈名声〉は、人間に降りかかる最悪の呪詛である。

これを負け犬の遠吠えと見るかどうか。

 なぜアダムとイヴは、生命の樹にすぐに手を触れようとはしなかったのか。不死の誘惑は、知の、なかんずく権力の誘惑より強くはないからだ。

このあたり、キリスト教者ではないシオランが好んで取り上げる、聖書における人類の原初。人類への皮肉。

 私はもともと軽佻浮薄な人間だった。ところが、さまざまの苦しみが降りかかり、そのため深刻にならざるをえなかったが、私には深刻なものに向いた才能はまるでない。

おれも、おれも、と言いたいところだが、おれを「深刻な人間」とみなす人間がいるのかどうか知らぬ。むしろ、おれほど軽佻浮薄な人間をインターネットで物言う人間から探し出すのはむずかしいのではないか。

 自分の五人の娘を弁証家に育てあげた、あるギリシアの哲学者(ディオドロスだったか)は、娘たちに男の名前をつけ、使用人たちを、なぜなら、とか、しかしなどといった接続詞で呼んでいた。

 言葉にもとづく至上権、同時に言葉のもつ専制の無視。

使用人を接続詞で呼ぶっておもしれえな。「しかし、酒を持ってこい」。「なぜなら、散歩に出かけるから留守番していろ」。

 かなり厳格な食餌療法をし、規則的な生活をはじめてから、いいことはこれといって何もない。不毛の五年。理性の五年。私の精神は、無秩序と何かの中毒があってはじめて機能するのだ。コーヒーをやめたのは高くついた。

で、シオラン、なんか健康に気を使っている。これは面白いことだ。コーヒーのほか、タバコをやめた話もしょっちゅうしている。おまけに、けっこう長めの散歩、というかハイキング、トレッキングなんかもしている。『生誕の厄災』の著者にして、自殺という概念を常にポケットに入れながら、人類は破滅するべきだという反出生主義者の人間が、規則的な生活をしているのだ。まったく悪くない。むしろ、そうでなくては、と思わせるくらいだ。

 すでに早く、二十歳になる前、私に理解できたと誇れる唯一のことは、子供をつくってはならないということだった。結婚、家庭、あらゆる社会制度、こういうものに対する私の嫌悪は、ここに由来する。子孫に自分の欠陥を伝え、かくて子孫に自分と同じ試練を経験させ、おそらくは自分のそれよりも過酷な苦難を経験させる――これは罪だ。私は、私のさまざまな病を受け継いだ者を生むことに、どうしても同意するわけにはいかなかった。両親とは、いずれも無責任な者か人殺しだ。畜生だけが子供つくりにいそしむべきだろう。同情心があれば、私たちは〈人の親〉にはなれまい。〈人の親〉、私の知るもっともむごい言葉。

 反出生主義の見事な一節。おれはシオランを知ってこの考え方に傾いたわけではなく、おれのなかにずっとあって、シオランに出会った。このことは、おれの過去の日記(おれの「カイエ」!)からも明確なことだろう。この点で、おれの両親は誤りをおかした。おれと弟はろくな人間になることもできず、苦難の中にあって死ぬことを待っている。ただ、子を作る可能性がないという点で、両親よりはマシな人生を歩んでいるとも言える。

 孤独な人間を攻撃する。政治において、そしてすべてのことにおいて、これほど卑劣なことはない。

モラリスト、というとべつに道徳家を意味するわけではないが、なにか道徳的な響きがある。しかし、ほかの著作には攻撃する側もされる側も、しょせんは同じ粘土で捏ね上げられてることを忘れるなよ、みたいなことも言っていたっけな。

 元寇のころの日本の兵士の歌について。「世界には一本の棒も立てられるわずかな土地もない。嬉しきかな。すべては、おのれも、全宇宙も無だ。蒙古の勇猛果敢な兵士どもの振りかざす大だんびらを讃えよ。なぜなら、それは春のそよ風を切り裂く稲妻のようなものだから。」(『仏教の現代性』中のトゥッチによる引用)

シオランさん、トゥッチさん、それは「日本の兵士の歌」ではないぜ。無学祖元の言葉だ。

禅語「電光影裏斬春風」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

乾坤、地として孤筇を卓する無し
喜び得たり、人空、法も亦また空
珍重す大元三尺の剣
電光影裏に春風を斬る

無学祖元は日本に渡来し、「日本の兵士」、すなわち鎌倉武士に大きな影響を与えたし、元寇にも無関係ではないけれど、兵士そのものではないのだな。でもまあ、禅にかぶれた武士が「珍重す……」って諳んじててもおかしくはないか。

 私は怒りでもって絶望と闘い、絶望でもって怒りと闘っている。ホメオパシーか?

ホメオパシーなの?

 先日、抜粋と解説とからなるスペイン内戦の映画『マドリードに死す』を観る。……(以下略)

シオランって映画とか観るの? みたいに思っていたら、観ていたようだ。そんだけ。いや、ちょっと為人を知りたいとかあるじゃない。ファンだから。

 病気も病人も好きではないが、それでも私は、健康な人の言動を真に受けることはできない。

こう言ってのけるあたりが、いいよな。おれも病弱な子供だった。大人になったら精神疾患持ちになった。そして、健康な人間の言葉は胡散臭いと感じるようになった。病気を克服して、という人間についても同様だ。

 六年前の〈カイエ〉にざっと目を通したところだ。なんという混乱か! なんというとげとげしさ、麻痺ぶりか! 憂鬱の深刻さにわれながら衝撃を受ける。

で、自分でこんなこと書いているところも面白い。ところでおれは、同人誌(といっていいのかわからないが)を出してもらえる(というのも変な表現だが)ことになって、それこそ五、六年前の文章を読んだのだが、「昔のおれは今のおれより文章がうまいなあ」と思わずにはいられない。今、これを読んでいる暇があったら、「はてなダイアリー」のおれの文章を読んだほうがいい。あるいは、今度出るらしい同人誌(中綴じの薄い本ですが)でも買ってください。宣伝。

 ケネディの死は私には大きな悲しみだった。

たまに同時代のニュースなど出てくる。本当に、たまに。そうか、どこか浮世離れしたところがあるが、その時代の人だったのだな、とか。あと、たまに日本の話と、なぜかモンゴルの話を書く。仏教から日本、というのはわかるが、モンゴルはよくわからない。

 自分の夢を写真に撮ることができれば!

シオランが実生活で写真を撮っていたのかどうかはしらない。ただ、実生活でいくらか写真を趣味としているおれは、あまりに美しい風景を前にして、カメラの電源が入らない、シャッターがおりない……という夢をよく見る。呪わしい夢だ。

 カリギュラは、彼の愛馬が円形競技場で演技を行う前の晩は、厩舎の周辺を静寂に保つよう衛兵に命じている。カリギュラで何が私の気に入ってるかといって、この命令にまさるものはない。

シオランローマ皇帝、というか暴君好きはところどころ出てくるが、このあたりはおもしろい。

 ドイツ的被虐趣味は耐えがたい。昨夜、ハンス・M・エンツェンスベルガーの講演を聞く。彼の言葉を信じるなら、今度の大戦で犯罪を犯したのはドイツ人だけだということだ。

 この民族は傲慢か卑屈かでしかありえず、挑発者か臆病者でしかありえない。

エンツェンスベルガーといえば『何よりだめなドイツ』の作者であって、「自虐史観者!」ということも言えよう(シオランはドイツ人じゃないけど)。でも、おれはエンツェンスベルガーの『政治と犯罪』も『がんこなハマーシュタイン』も好きなんだぜ。

 アレクサンドル・ブロークは、一九一二年四月十五日付けの『日記』に次のように書きとめている。「昨日、タイタニック号の難破を知って狂喜。してみると、まだ大西洋は存在しているのだ。」

ブロークはロシアの詩人。詩人と言うと、この『カイエ』ではエミリー・ディキンスンへの熱狂が多く綴られている。いずれおれも読んでみよう。

 遺伝、――この言葉を聞いただけで背筋に戦慄の走るのを覚える。宿命という古代の言葉の方がずっと耐えやすく、またずっと穏やかだった。

これはもう、まったくもって今現在に通用する言葉だろう。遺伝、あるいはその解析、そして操作。それに対して人間はどうあるべきか。もう、用意しておいたほうがいい、という段階でもないだろう。

 性欲を抑えるのは最難事のひとつだ。欲望を克服する力をもつには、まさに神を信じなければならない。

今まで何冊か、というか、それなりにシオランの本を読んできたが、シオランが性について語ることは稀だ。半出生主義の立場から、出生について語りはすれ、性そのものについては沈黙している印象がある。これは珍しい一文。

 仕事をしたいと思いながら、その能力のない不幸。

これはシオラン自分自身についての言葉かどうか。ただ、これも主語やなにかを大きくしてしまえば、今後の大勢の人間というものが直面していく問題ではあろう。ほんの少数の有能者が仕事に就き、大勢の無能者はやることがなくなる。

 私は仏教徒ではない。だが、仏教のさまざまの固定観念は私のものである。

シオランと仏教、というとひとつのテーマになるだろう。本人はこう言っている。おれもこのくらいは言いたいものだが。

 一二月二六日、今日は、オアーズ川沿いに五時間、休みなしに歩く。

 精神の苦しみの治療法としては、肉体の疲労、運動、ほぼこれだけだ。

このあたりの健康的なシオラン。自転車でフランス一周しただけの下地はある。タバコもコーヒーもやめ、精神の健康のために歩く。それでもって、世の人を困惑させる絶望を吐き出してやめない。なんともいいじゃないか。

 口頭でなら面白い展開はいくらでもできるが、しかし書きはじめると、とたんに私は身動きがとれなくなる。私はほとんど書かないから、自分の書くものをどうしても信じてしまうからだ。つまり、私にとっては言葉には重みが、実在性があり、その言葉に自分は責任があると思うのだ。言葉の一つひとつが、私にはかけがえのないものであるという特権をもっている点は別にしても。

言葉に対しては常に真摯だ。シオランが母国語を捨て、フランス語を選択した、ということもあろう。ちなみに、おれはというとお喋りについてはぜんぜん軽薄でけっこう、という具合であって、非常にいい加減で、なおかつ人を笑わせようとする悪癖がある。たまに、女などにブログに先に書いてしまったことなどを話したりもするが、決まった筋書き、盛り上がるところ、そしてオチと、なかなかに頭を使う。うまくいったり、いかなかったりする。コメディアンは偉大だ。

 本が興味深いものになるのは、そこに見られる苦しみの量によってだ。私たちの関心をそそるのは、作者の思想ではなく苦しみであり、彼の叫び声、沈黙、袋小路、百面相であり、解決不可能なものをかかえた文章である。一般的に、苦しみから生まれたものでないものはすべて偽ものだ。

これについて「そんなはずないはない!」と即座に思えてしまう人は、Mで待ってるやつと同じくらいに、もうグッバイだ。「そうかもしれない」と思える人とは話せるし、「そうだろう」と言う人とは仲良くなれるかもしれない。

 モーツァルトと日本は、天地創造のもっともみごとな成功例だ。

いや、日本びいきもそこまで言われると。というか、シオランは日本に来たことはないだろう。ただ、出口裕弘とはちょくちょく会っていたのだから、出口さんの印象がよかったということもあるかもしれない。違うかもしれない。

 挫折した者、落伍者、不幸な人々(特に女性)、若者、要するに不完全なものと未完成のもの――私の本が、いくつかの例外を除き、信用されているのは、以上のような人々のあいだに限られる。

見事に自分の声の届け先を知っている。そうだ、おれは落伍者、そしてシオランを信用している。だから、ここで『カイエ』を読み切るのはやめよう。しばらく取っておこう。そうすることにする。いずれ、残りを。

 

カイエ 1957‐1972

カイエ 1957‐1972

 

 

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