バンザイ! マスク解禁! うっひょー、今日はマスクしなくてもよくなった日! マスクなんてゴミ箱行きだ! おお、すがすがしい春の空気! 花粉!
……とか盛り上がった人はどれだけいるのだろうか。あまりいないのではないか、というのがおれの感じたところ。朝の自転車通勤はあまり人とすれ違わないのでよくわからない。昼のコンビニはみなマスクをしていた。電車通勤の人に聞くと、「みんなマスクしていた」。帰り、スーパーに寄る。店員も客もみなマスクをしている。その帰り道、ニ、三人マスクをしていない人を見たが、ニ、三人である。だいたい、一人で通勤、通学をするときの屋外ではマスクしなくてもいいみたいなことは前から言われていた。
して、おれはマスクをしていた。外すわけがない。たかだか不織布のマスク一枚で「多数派」でいられるならば、おれはマスクを手放さない。だれかとすれ違う可能性が極めて低くても、屋外でマスクする。おれ、やばくない。善良な人間。人の和を大事にする。そういう態度を見せる。そのほうが安心。
……そんな安心を求める態度がよろしくないと言われればそのとおりだ。そんなんわかってる。でも、おれは面倒事を避けたい。マスクが多数派ならば、マスクを着け、マスクが少数派になれば、マスクを外す。そういう芯のない人間なのである。
だが、しかし、この国の同調圧力というようなものは強いらしい。小田嶋隆もたしか「この国の人々は自分たちで決めてしまったルールはかたくなに守る」みたいなことを書いていた。
そうだ、「解禁」などと書いたが、明確な、法的な、国家からの「禁」はなかった。だから、「解禁」というのもおかしい。とはいえ、実質的に国は「解禁」した。「禁」も個人任せ、社会任せ、「解禁」も同じく。これはよくわからない。
よくわからないが、おれは「解禁」についてお上が大々的にアピールしてもいいのではないか、という考えはある。
2021年の10月におれはこんな記事を書いた。
でも、いずれはマスクを外す日が来るのだろう。
それがいつになるかはわからない。一年後かもしれないし、二年、三年、あるいは五年後かもしれない。
それは想像がつかない。専門家も明言しない。明言できない。
ひょっとして、おれが生きている間は来ないのか。そんな想像もする。
あるいは、こんなことも。
同じことを繰り返してもしょうがないが、マスク外すときって、どういうときなんだろうねって思うのよ。自然発生(自然消滅?)的に、みんながだんだんと外していくというのは、どうも想像がつかんのよな。
となると、やはり政治家が、総理大臣が、「マスクしなくていいですよ」と宣言するみたいなことになるのかな。なんか儀式じみているな、とか思ったり思わなかったり。
そして、こんな妄想。
「わたしたちは、ようやくこの日を迎えることができました。わたしたちはあの災厄を逃れるために、ここ月軌道のコロニーにまで至りました。第一コロニー、セイントリー。第二コロニー、オクタゴナル、第三コロニー、マイトアンドパワー、そしてここ、第四コロニー、マカイビーディーヴァ。ここに至ってわたしたちは、ついにSARS-CoV-2とその数々の変異種から逃れることができたのです。ようやく、わたしたちは、あの恐るべき感染症から自由になりました。それを、ここに宣言します。私も、皆さま賢明なる人類も、忌まわしいマスクを外すときが、いま訪れたのです……!」
さて、そんな大変化は訪れなかった。それだけのことである。
あ、ただ、一つだけ言っておきたい。今、マスクを取るのが対コロナウイルス的に正しいのかどうか、おれにはまったくわからない、ということだ。
今が「そのとき」であるかどうかはわからない。さっぱりわからん。わからんけど、いつか日本人もマスクを取るときが来るように思う。今回は、ひょっとしたら「そのとき」だったのかもしれない。違うかもしれない。それはどうでもいい。やはりおれの関心は、「ここまでマスク着用を受容してきた日本人が、いつそれをやめるのか」ということだ。
他人事じゃなくて、おれもその日本人の一人で、今日もマスク着けて生活したんだけどね。どうなると思うね? どうなるんだろうね? やはり、「そのとき」になったら、儀式的なものすら必要に思う。でも、「そのとき」がくるかはわからない。だれがそれを判断するのだろうか。まったくもってわからない。政府がマスク解禁をしたからといって、五類相当に移行させたからといって、ウイルスには関係ない。また変異株を生み出すかもしれないし、大流行を起こすかもしれない。デンジャラス。
まあ、おれ自身はマスクをそれほど苦にしない人間なので、他人事のようにこの世を眺めるよ。おれがコロナに罹って死んでしまうかもしれないけどな。そんでもね、このまま次の大流行の波が来なければ、暑い暑い夏にはみんな外すんじゃないかとか思ってるんだけどね。